「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第49回 ベントン彫刻機の疎開

筆者:
2020年6月10日

昭和19年(1944)11月末から、アメリカのB29爆撃機による本格的な東京への空襲がはじまった。三省堂のたいせつなベントン彫刻機が置かれている蒲田工場にも危機がせまっていると感じた専務の今井直一は、蒲田工場技師の細谷敏治に、工場の重要な機械などを移転するよう特命をくだした。

 

三省堂蒲田工場(大正13年秋ごろ撮影)

三省堂蒲田工場(大正13年秋ごろ撮影)

 

当時の三省堂蒲田工場は、横浜の印刷会社・文寿堂傘下の日本海軍管理工場となっており、工場出入口の守衛室には海軍の軍人がいて、つねに監視していた。そんななかで、工場施設のたいせつなものをどうやって持ち出せばよいのか。

 

細谷は製版課と植字課の課長を兼務している立場だった。自分の独断でこの任務をはたすのは責任上不安があるとおもい、上司である技師長に相談したものの、にべもなくことわられてしまった。

 

理由は海軍の管理官が毎日守衛室に来ているので、自分等の自由持ち出しは何一つ不可能であるから責任上困る、という返事である。責任上といったら私など尚さら困るのであるが専務からの指示もあり、また会社として大切な資材関係を守る必要性を真剣に考えていたので何とかと食い下がったが、全然期待が持てなかったので、では自分だけの責任として、全責任を負う覚悟を決めたのであった。予想していた成行きである。

細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)

 

細谷はまず、海軍の管理官に接触した。戦時中、軍人にはとくべつな存在感があり、話しかけるにも物怖じするひともおおかったが、細谷はちがった。

 

その時分私は、暗号文字の創作の件で海軍参謀本部(日吉の現在の慶応大学のキャンパス場所にあった)と陸軍参謀本部(登戸の山の上)から要請があって、時折出向いていた。そんなことで、軍人とかその雰囲気に接することは気分的に受け入れが容易であった。(中略)自分には自分固有の技術的自信があると、まだ若年であったから[注1]、そんな思いも胸にあったようである。

細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)

 

ベントン彫刻機や活字鋳造機をはじめ、活版印刷に必要な資材関係を工場から搬出することは、容易なことでない。活字は1本1本が鉛合金のかたまりで、場所もとるし重量もかさむ。そっと持ち出せるような規模の話ではない。

 

そこで細谷は、海軍の管理官に率直に相談をした。

 

アメリカの空襲が激しくなって来ているので、海軍管理工場の重要な機械とか資材関係の一部を安全なところに疎開したい旨を相談したら、場所は三省堂の鉄筋コンクリートの倉庫で、水道橋の神田川のほとりであるから(筆者注:三省堂神田工場のこと)、直撃弾でない限り、近隣の火災の類焼には絶対に危険ではない。ということを、そして倉庫に疎開した機械物資をあわせて、管理して欲しい……ということを丁寧に説明して了解を得た。

細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)

 

「海軍管理工場の重要な機械や資材をまもりたい」という細谷の説明を聞き、管理官は機械・資材類の疎開を了解した。細谷はすぐに運搬準備にとりかかった。

 

疎開させるのは〈ベントン彫刻機を始め、三省堂として蒲田工場が全焼しても、辞書類、コンサイス等の植字組版に必要な活字や活字の鋳造機等〉だ。辞書の植字組版に必要というと、じつに膨大な種類の活字となる。

 

細谷は鋳造や植字の現場の責任者と相談をはじめた。みな、細谷の説明に賛同し、搬出の準備に協力した。空襲がせまってきているためできるかぎり迅速に準備を進めなくてはならないことは、工場の従業員たちも理解していたので、準備は順調にすすみ、梱包もできた。

 

しかし、搬出のためのトラックがおもうように手配できる情勢ではなかった。細谷は三省堂本社の営業部長に事情を話し、車を出してもらえることになった。

 

当時は既にガソリンが欠乏していて、木炭車といって、木炭を燃やすタンクを荷台に積んで、そのガスを利用して車を走らせるトラックばかりであった。そのトラック(木炭車)に、最も重要なベントン彫刻機及びパターン附属物等を積み込み、搬出第1陣とした。三省堂の大事な辞書類の組版原版類コンサイスの組版などを「ゲラ積み」にして、第2陣の搬出。2日目である門衛のところの海軍管理官に挨拶をして無事門を出た。第1陣の時から途中空襲警報で何回か待機したということであったし、荷物が重いので坂道を登るのが容易でなかったという情報も入った。荷物が過重かとも思ったが、活字ばかりだと、重量は重いがトラックの荷台から上に嵩らないので管理官の目には余り抵抗を感じないようでその点こちらが気楽に管理官などとも談笑したり、その間に工場の門を通過していた。神田三崎町倉庫まではかなりの道のりであった。最後は木製の植字台や机器材関係で、これは荷台に山と積んでも余り抵抗を感じない。

細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)

 

細谷は活字のストックもできるかぎり持ち出したいとかんがえたものの、あまり搬出しすぎても管理官にとがめられるかもしれないという不安もあり、ほどほどの量におさえた。活字の自動鋳造機は全6台中3台を搬出した。それだけあれば、神田工場で植字組版作業をはじめるとしても、活字の補充は十分まにあうとかんがえた。

 

三省堂でつかわれていた活字鋳造機(三省堂印刷八王子工場所蔵)

三省堂でつかわれていた活字鋳造機(三省堂印刷八王子工場所蔵)

 

結局、彫刻母型は全部と彫刻するのに必要なベントン母型彫刻機一式、三省堂の主要生産である辞書類、特にコンサイス組版に事欠かないように、活字及び活字地金材料関係、非常に多種類の活字等を入念に調査梱包して搬出に成功した。直撃弾でない限りは、心配のない頑丈な鉄筋コンクリートの地下倉庫に搬出品はすべて格納した。

細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)

 

蒲田工場から神田工場への機材類の疎開が決行されたのは、昭和19年(1944)12月のことだった。[注2] 『三省堂の百年』には〈軍需工場となった蒲田工場には不要のベントン彫刻機や、欧文組み、辞書組版用資材を三崎河岸倉庫と、石神井(練馬区)の神学校に、編集用の貴重資料、書籍、原稿類は、山梨県南都留郡東桂村に疎開した〉と書かれている。[注3]

 

重要な任務をやりとげた細谷は、〈これで安心、安心!! と思って当時の専務(筆者注:今井直一)にもすべて報告〉[注4]した。その後の蒲田工場では、消防隊を組織して、消火ポンプの使用や散水防火の訓練をさかんにおこなった。いっぽうで細谷は、横浜の文寿堂に週1回の取り決めで出社し、技術的な会議に参加したり、青年隊の英語の指導をおこなったりした。

 

昭和19年の秋と言えば(筆者注:機材疎開は12月なので、これは細谷の記憶違いとおもわれる)アメリカの空襲警報がかなり頻繁になり始めた頃であった。いろいろな思いをしながら、又苦境も乗り越えて、万一の事があっても三省堂としては今後の生産事業に、とにかく立ち上がりに必要な資材関係と最も大切な設備の一つであるベントン母型と彫刻機(三省堂が保有しておった)、母型、パターン、等を神田三崎町倉庫に運び込み格納する事が出来て、全く「ホッ」とした思いになっていた。

細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)

 

昭和20年(1945)にはいると、細谷は妻と子(当時1歳)を故郷の山形に疎開させ、自身は母と東京に残ってくらしていた。3月に、軍隊の手を借りてやっとのおもいで鉄道乗車券を手に入れ、妻子に会うことができた。東京にもどった細谷にとどいたのは、海軍からの召集令状、いわゆる「赤紙」であった。

 

3月13日に横須賀海兵団に入隊と言うことになったのである。本来ならば、三省堂からは私と、先輩の方と二人は、召集免除の申請がしてあったと聞いていたのですが、考えてみると戦争も末期のドサクサの最中でもあった。

細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)

 

細谷は横須賀海兵団に入隊し、約1カ月後に霞ヶ浦航空隊に整備兵として配属になった。

 

昭和20年(1945)4月15日。

東京に109機のB29爆撃機が飛来して745トンの焼夷弾と15トンの爆弾を投下し、蒲田区はほぼ全域が焼かれた。[注5] 3月10日の東京大空襲では大難をまぬがれた蒲田工場だったが、この日、あたり一帯の工場や住宅とともに灰燼に帰した。[注6] 三省堂は、前日の4月14日にも小石川の東湖ビルを空襲でうしなっていた。

 

三省堂は大正元年(1912)に倒産を経験したものの、その年を再建元年として立ち直り、おおむね順調に発展していた。〈戦前には中等教科書業界、辞書業界において第一位の勢力に達し〉[注7]、神保町の本社と書店のほか、蒲田工場、神田三崎河岸の倉庫(昭和20年2月、この倉庫内に神田工場を設立し、陸軍監督工場として稼働していた)、小石川の東湖ビルを所有していた。しかし戦火によって蒲田工場と東湖ビルをうしない、大阪支店も焼けた。神保町本社と書店、三崎河岸倉庫(神田工場)のみとなってしまった。

 

だが、今井の特命をうけた細谷のはたらきにより、ベントン彫刻機とパターン、辞典組版用資材、おおくの辞典の清刷りなどは、焼失の憂き目にあうことなく、のこった。これによって三省堂は、終戦後、再建に向けてすぐにうごきだすことができたのである。
(つづく)

 

[注]

  1. 細谷ノートには〈(28歳)〉とあるが、昭和19年(1944)の出来事だとすると、細谷は31歳のはずである。
  2. 株式会社三省堂第30期(昭和19年7月~昭和20年6月)の営業報告書に、〈我社に於ては昨年12月蒲田工場内の重要機械器具類の一部を神田区三崎町所在の倉庫内に無事疎開させましたが〉とある(原文はカナ漢字混じり文)。『三省堂の百年』(三省堂、1982)P.207
  3. 『三省堂の百年』(三省堂、1982)P.208
  4. 細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)
  5. 「東京大空襲とは」東京大空襲・戦災資料センター
    https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/
  6. 細谷の自宅は大田区大森にあり、空襲の被害に遭ったが、さいわい家族は全員疎開しており留守だった。細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)より。
  7. 『三省堂の百年』(三省堂、1982)P.209

[参考文献]

  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
  • 細谷敏治ノート「焼結法によるパンチ母型 1」(2008年ごろ執筆)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『印刷・紙づくりを支えてきた 34人の名工の肖像』『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本で3社しかもっていなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。