1917年10月24日、山下たちの乗るコリア丸は、ハワイ準州のホノルル港に寄港しました。ここで委員会一行は、日系人たちの熱烈すぎる歓迎を受けることになります。在ホノルル総領事の諸井六郎が主催する晩餐会で、山下たちは、その理由の一端を知ります。ヒントは、晩餐会でのピンカム(Lucius Eugene Pinkham)知事の談話の中にありました。ハワイの人口は23万人程度なのだが、うち日系人が11万人もいるというのです。これらの日系人は、入植初期は労働者ばかりだったのが、徐々に資本家も増えており、それがまた新たな日系人を呼んでいる、ということでした。日本人は通商の拡張に熱心な国民であり、もちろんハワイは、日本人との通商を歓迎する、というのです。ピンカムの談話には、多少の誇張は含まれていたものの、ハワイにおける日系人の立場、あるいは、その背後に見え隠れする排日運動を、微妙に示唆していました。
10月31日の天長節、委員会一行は、サンフランシスコに到着しました。天皇の誕生をお祝いする日に到着したこともあって、コリア丸の甲板上で、いきなり歓迎式典が始まる事態となりました。さらに、一行がフェアモント・ホテルにチェックインするのもそこそこに、委員会の到着パーティーと、天長節を祝うパーティーとが、一度に始まってしまうという、よくわからない大歓迎ぶりでした。実はカリフォルニア州では、この4年前に排日土地法(California Alian Land Law of 1913)が施行され、日系人の土地所有は禁止されていました。土地が所有できないだけでなく、3年以上の土地貸借契約すら、日系人は結べないという法律だったのです。サンフランシスコの日系人の多くは、農園経営に携わっており、日本帝国政府特派財政経済委員会に、現状の打破を強く望んでいたのです。
11月1日、委員会一行は、フェアモント・ホテルの4ブロック南、テイラー通り624番地のボヘミアン・クラブに招かれました。ボヘミアン・クラブでは、商工会議所(Chamber of Commerce)主催の昼食会が、ロルフ(James Rolph)市長も招く形でおこなわれました。その日の夜、一行は、在サンフランシスコ総領事の埴原正直が主催する晩餐会に出席しています。11月2日にはパレス・ホテルで、サンフランシスコの日本人会主催のパーティーがおこなわれ、さらに会場をフェアモント・ホテルに移して晩餐会がおこなわれました。日本人会の話題は、やはり排日土地法でした。ただ、排日土地法に関して、日本帝国政府が直接カリフォルニア州議会に働きかけるのは、どう考えても無理があります。目賀田としては、カリフォルニア州に日系の銀行を設立することで、日系の農園経営者の財政状態を改善したい、というアイデアを持っていて、その実現可能性を、山下や米山に検討してほしいようでした。しかし山下としては、サンフランシスコに住友銀行の支店を開設(1916年9月)していたものの、独立の日系の銀行をカリフォルニア州に設立できるかどうかは、まだまだ未知数でした。そして11月3日、委員会一行はサンフランシスコを出発し、一路、東へと向かったのです。
(山下芳太郎(28)に続く)