人名用漢字の新字旧字

第73回 「悦」と「悅」

筆者:
2010年10月7日

(編集部注:当初公開した内容に誤りがありました。10月8日未明に内容を差し替えました。謹んでお詫び申し上げます。)

新字の「悦」は、常用漢字なので子供の名づけに使えます。旧字の「悅」は子供の名づけに使えません。つまり「悦」は出生届に書いてOKですが、「悅」はダメ。ただし、「悅」が子供の名づけに使えた時期もあったのです。

昭和15年12月、国語協会は『標準名づけ読本』を発表しました。『標準名づけ読本』は、やさしい名前を子供につけることで国字運動の一翼を担おうというもので、子供の名づけに用いる漢字を500字に制限しようとするものでした。この500字の中に、旧字の「悅」が含まれていました。一方、昭和17年6月17日に国語審議会が答申した標準漢字表2528字にも、旧字の「悅」が収録されていました。

ところが、昭和21年4月27日、国語審議会に提出された常用漢字表1295字には、旧字の「悅」も新字の「悦」も含まれていませんでした。この常用漢字表に対し、国語審議会は5月8日の総会で、さらなる検討を要すると判断し、6月4日、常用漢字に関する主査委員会が発足しました。

昭和21年9月25日、常用漢字表に関する主査委員会には、『標準名づけ読本』500字を選定した5人の委員のうち2人が出席していました。主査委員会は常用漢字表を練り直すにあたって、固有名詞に対する漢字制限を視野に入れており、そのためのヒアリングをおこなっていたのです。『標準名づけ読本』500字のうち、この時点での常用漢字案に含まれていなかったのは、92字でした。主査委員会は、これら92字のうち、旧字の「悅」を含む17字を、常用漢字案に追加することを決定しました。また、10月1日の主査委員会では、表の名称を、常用漢字表から当用漢字表へと変更しました。

昭和21年11月5日、国語審議会は文部大臣に当用漢字表を答申しました。この時点の当用漢字表1850字は、手書きのガリ版刷りでしたが、旧字の「悅」が収録されていました。翌週11月16日に内閣告示された当用漢字表にも、旧字の「悅」が収録されていました。昭和23年1月1日に戸籍法が改正され、子供の名づけに使える漢字が、この時点での当用漢字表1850字に制限されました。当用漢字表には、旧字の「悅」が収録されていたので、「悅」は子供の名づけに使ってよい漢字になりました。

国語審議会は昭和23年6月1日、当用漢字字体表を答申しました。当用漢字字体表では、旧字の「悅」の代わりに新字の「悦」が収録されていました。昭和24年4月28日に当用漢字字体表が内閣告示された結果、新字の「悦」が当用漢字となり、旧字の「悅」は当用漢字ではなくなってしまいました。当用漢字表にある旧字の「悅」と、当用漢字字体表にある新字の「悦」と、どちらが子供の名づけに使えるのかが問題になりましたが、この問題に対し法務府民事局は、「悅」も「悦」もどちらも子供の名づけに使ってよい、と回答しました(昭和24年6月29日)。

ところが昭和56年10月1日に、新字の「悦」は常用漢字になりましたが、一方、旧字の「悅」は子供の名づけに使えなくなってしまいました。この結果、現在では、新字の「悦」は出生届に書いてOKですが、旧字の「悅」はダメなのです。

筆者プロフィール

安岡 孝一 ( やすおか・こういち)

京都大学人文科学研究所附属東アジア人文情報学研究センター准教授。京都大学博士(工学)。JIS X 0213の制定および改正で委員を務め、その際に人名用漢字の新字旧字を徹底調査するハメになった。著書に『キーボード配列QWERTYの謎』(NTT出版)『文字コードの世界』(東京電機大学出版局)、『文字符号の歴史―欧米と日本編―』(共立出版)などがある。

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