これからこの場をお借りして、ご一緒に、ある文書を読んでみたいと思います。今回注目するのは、西周の「百学連環」です。いまではほとんど顧みられなくなった、というより、これからお話ししてゆくように、そもそも目に触れることの少なかった文章です。詳しくは、読み進めてゆく中で述べることにして、読解にとりかかる前に、少しだけ前置きをしてみたいと思います。
この「百学連環」という文書は、明治3年頃につくられたものです。西暦で言えば1870年。いまからおよそ140年ほど前のこと。明治維新と呼ばれる一連の動きによって、江戸幕府が倒れ、明治時代が始まった頃のことです。
先ほど、著者を西周(にしあまね、1829-1897)と言いましたが、実際に書いたのは永見裕という人物でした。ちょっとややこしいのですが、「百学連環」は、もともと西周が私塾で行った講義の記録なのです。その講義を聴いていた永見が、西先生の言葉を筆記したという次第。
この文書、ありがたいことに現在では、活字に起こしたものが『西周全集』(宗高書房)の第4巻に収録されています。ただ、手に入れづらいこともあって、必ずしもよく読まれているとは言えないのが現状です。そこでなんとかしてこの「百学連環」を、改めて読みやすく手に入りやすい形にできないだろうかと思っていたところ、ご縁があってこの場を使わせていただけることになったのでした。
それにしても、どうしてわざわざ140年も前の講義録を、いま読み直そうというのでしょうか。事は学術に関わっています。とりわけ、その全体についてどう捉えるか、どう考えるかという大きな問題です。
目下、学術がどのような状況にあるかということは、例えば、大学のしくみから垣間見ることができます。それぞれの大学は、多くの場合、複数の学部から構成されており、学部はさらに複数の学科に分かれています。学部を例にとると、工学部、理学部、農学部、医学部、薬学部、文学部、法学部、経済学部、教育学部等々、といった具合です。もっと大まかには、理系/文系といった分類や、自然科学/人文学、あるいは自然科学/人文学/社会科学といった分類をすることもあります。
こうした学術の分類は、歴史のなかで生まれたり消えたり、変化してきたものです。でも、面白いことに、現代の私たちにとって、こうした分類は、ともすると最初から、つまり自分が物心ついたときには、すでにそういうものとして存在していたことの一つです。そして、そういうものについて、人はしばしば「どうしてそうなったのか」という来歴を忘れます。来歴が分からなくなると、その必然性も見失われかねません。
もう少し具体的に身近なところで考えてみましょう。例えば、高校の段階で、文系か理系かというコースを選ばされたりすることがあります。そのとき、なぜそんなふうに分かれているのか、不思議に感じたことはないでしょうか。まるで世の中には二種類の学術領域があって、その二つは水と油であるかのように分けられている。誰がいつそんなふうに分けたのか分からないけれど、とにかくそういうものなんだからどちらかを選べというわけです。そして、一旦いずれかを選ぶと、ほとんどの場合、それ以降、選ばなかったほうの領域は縁がないものとして積極的な関わりを持たなくなったりもします(ここで「そんなことはないぞ!」と憤慨された方は、希有な例外であります)。
いずれにしても、私たちは物心ついたときから、すでに学術がいろいろな領域に分かれている状態を当然のことと思って生きています。また、学術が進展するにしたがって、細分化され専門化が進むことは必要があってのことです。ここで問題だと思うのは、いつしかそうした学術全体を見渡してみようという試みがなくなって、学術の全体像というものがあまり顧みられなくなっていることです。しかし、学術に限らず、全体を顧みないまま部分ごとの最適化ばかりに注目しすぎた結果、例えば環境破壊のような問題が深刻化したのはご存じの通りです。
昨今「エコロジー」と日本語で言えば、なんだか環境保護の話のように思えてしまうかもしれませんが、言葉の元来の意味でエコロジカルに考えてみることも必要だと思うのです。つまり、エコロジー(Ökologie)とはドイツの生物学者エルンスト・ヘッケル(1834-1919)が、生物を考察する上でその個体だけでなく、その生物が周囲にある他の生物や自然環境と取り結ぶ「あらゆる関係」を考慮する試みに名付けた言葉でした。この意味でのエコロジーは「生態学」と訳されますが、いわばそういう意味で個々の学術だけでなく、学術のエコロジーを考慮してみる必要があると思うのです。
今回、「百学連環」に着目してみたいのは、この講義が当時の西欧学術全体を、相互の連関のなかで広く見渡してみようという試みだからでした。もちろん、140年前のものですから、現在とは学術を取り巻く状況やその編成は違います。しかし、これから見てゆくように、学術やその分類の発想自体は、さほど大きく変わっていません。そういう意味で、「百学連環」は、来し方を見直し、現在を見る目を養い、さらには行く末を占うための一つの材料として、うってつけの文書だとも思うのです。
というわけで、前置きはこのくらいにして、次回から読解にとりかかろうと思います。