久しぶりに「百学連環」本文に戻ってきました。最後に読んだ講義の本文は、第37回をご覧ください。「学(Science)」と「術(Art)」は混同しやすいものだが、区別せねばならないということで、ラテン語交じりの引用文が現れたのでした。
続きを読んでゆきましょう。次の文はこうです。
學とは原語の通り、あるとあらゆるを分明に知り、其根元よりして、既に何等の物たるを知るを云ふなり。
術とは生することを知ると原語の通り、何物にても成り立所のものゝ根元を知り、其成り立所以を明白に知るを云ふなり。
(「百學連環」第5段落、第6段落第1文)
訳します。
「学」とは〔今示した〕原語にあるように、あらゆる物事を明確に知り、その根源からそれがなんであるのかを知ることである。
「術」とは、生じることを知るという原語の通りで、あらゆる物事について成立するものの根源を知り、その成り立つわけを知ることである。
以上は、前段まで英語やラテン語交じりで述べたことを、西先生の言葉で言い直しているくだりです。要すれば、「学」とは対象がなんであるかを知ることであり、「術」とは対象がどのように出来ているかを知ることだというわけです。前回見たアリストテレスの区別とほとんどそっくり重なっていることが分かります。
主にここで読んでいる「甲本」では次に英文が現れますが、「乙本」を見ると、その英文の手前に具体例が挟まれています。学と術の区別について、西先生がどのように捉えていたのかを知るためのよき材料ですので、見ておきましょう。
學と術とを區別して一ツのものに譬へむには、彼處に一人の病人あり、軍中にて足ヲ銃丸にて打たれしと言ふ、故に今醫者を招きて療治するに、醫者の人體の筋骨皮肉五臓六腑の組立を知るは學なり、さて其銃丸に打たれし足を治セんに、元より筋骨の組立はよく知る所なれは、其の銃丸を如何して拔き取り得へき工夫をし得て、是を療治す是即術なり、
(「百學連環」乙本より)
訳せばこうなるでしょうか。
「学」と「術」を区別する譬えを一つ述べよう。ここに一人の病人がいる。軍中、足を銃で撃たれたという。そこで医者を呼んで治療する。医者は人体の筋骨や皮肉、五臓六腑の仕組みを知っているが、これは「学」である。さて、その銃で撃たれた足を治すにあたっては、もとより筋骨の仕組みをよく知っているから、銃弾をどのように抜き取るかということを工夫して治療するわけだが、これを「術」というのである。
講義などで物事を抽象的に説明して終わると、聞いた側の理解や知識が上滑りしてしまうことがあります。そこで、このように具体例を提示すると、ようやく地に足がつくわけです。これはものを説明する際に留意すべき点の一つでありますが、アリストテレスなども、実に見事にこの方法を活用しています。
この例にこと寄せて言えば、人体の解剖学的知識や病理についての知識は「医学」であり、そうした知識に基づいて病を治療する行いが「医術」と言えるでしょう。ここで例に取られている医術は、江戸の蘭学の時代にも中心的な位置を占めた学術であり、西先生の家も父時義は津和野藩の藩医であったことも思い起こされます(ただし、西周は藩命によって還俗しています)。
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即=卽(U+537d)
既=旣(U+65e3)