「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第31回 増補:築地活版とベントン彫刻機⑤ ベントンの移籍

筆者:
2019年10月2日

日本では明治末~大正にかけて、3社がアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)製ベントン彫刻機をもちいていた。三省堂よりさきに印刷局と東京築地活版製造所が入手していたことは、連載第11回「ベントンとの出会い」第12回「印刷局とベントン彫刻機」でふれたとおりだ。しかしその後の調査で、あらたに見えてきたことがある。前回までで、東京築地活版製造所(築地活版)がATFから大正10年(1921)に購入したベントン彫刻機が関東大震災で焼失したこと、震災後もう1台のベントン彫刻機が到着したことと、同社のベントン彫刻機活用状況についてふれた。今回は同社のベントン彫刻機についての最終章だ。

 

 

大正12年(1923)9月1日の関東大震災による火災で、東京築地活版製造所(築地活版)がアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)から購入したベントン彫刻機は焼けてしまった。しかし同社は前年、もう1台のベントン彫刻機をATFに発注していた。製造に時間がかかったことが幸いし、築地活版にとって2台目のベントン彫刻機は罹災をまぬがれた。

 

大正13年(1924)にはあらたに本社を建築し、母型彫刻室に2台目のベントン彫刻機が置かれた。具体的にどの母型をベントン彫刻機で彫ったのか、詳細はわからないが、昭和10年(1935)ごろには、この機械をもっていることは同社の特色のひとつと掲げられていたようだ。

 

しかし、関東大震災による本社と月島工場の全焼という被害が、築地活版にのこした爪痕はおおきかった。そこを境に、しだいに経営状況が悪化していった同社は、やがてベントン彫刻機を手放すことになる。これがどの時期だったのか、ということも疑問点のひとつだった。

 

活字史研究者・書体設計士の佐藤敬之輔は、著書『ひらがな 上』のなかで、築地活版がベントン彫刻機を手放したのは昭和6年(1931)と書いている。

 

二瓶義三郎はベントン彫刻機とともに築地活版から凸版印刷に移ったのが昭和6年頃である。

佐藤敬之輔『ひらがな 上』(丸善、1964)[注1]

 

二瓶義三郎(1908-?)は大正14年(1925)に築地活版に入社、その後、凸版印刷に移り、のちに凸版書体をつくったといわれる人物だ。[注2]

 

しかし昭和初期の築地活版のベントン彫刻機にかんする記事を『印刷雑誌』(印刷雑誌社)で追うと、下記が見つかった。

  • 『印刷雑誌』昭和8年(1933)5月号 細形9ポひらがなをベントン彫刻機で改刻中[注3]
  • 『印刷雑誌』昭和10年(1935)4月号 会社紹介の【特色】欄で〈ベントン母型彫刻機を設備し〉の記述[注4]
  • 『印刷雑誌』昭和10年(1935)5月号 座談会で築地活版の技師・上原龍之介が、ベントン彫刻機の使用について発言[注5]

また、築地活版が発行する『活字と機械』1935年版の口絵には、「機械彫刻母型工場」の写真中央にベントン彫刻機が写っており、すくなくとも昭和10年(1935)まではベントン彫刻機を使っていることが確認できる。

 

築地活版『活字と機械』(1935)の口絵。中央にベントン彫刻機が写っている

築地活版『活字と機械』(1935)の口絵。中央にベントン彫刻機が写っている

 

事態がおおきく変わるのは昭和12年(1937)だ。『印刷雑誌』10月号に「築地活版移転の噂」という記事が載る。

 

東京築地活版製造所が由緒ある築地を離れて板橋区志村に移転するとか、現在の社屋を某会社に譲渡するとか種々の巷説が伝えられているので、同社の古き声名を惜む一部の人々はこれらの風説を憂慮している向きも少くない。事実同社の誇るベントン彫刻機の如きは既に凸版印刷株式会社に売却されたとの話もある。(下線筆者)本社の確聞する所では、同社は依然として築地本社に於て営業を行なっておるが、多少事務は渋滞の気味である。また今後同社がいかに処置策を講ずるかは幹部もこれを確知し居らず、一切は来る二十九日開かるる同社株主総会に於て決定さるる筈であって、明言を避けている。

『印刷雑誌』昭和12年10月号[注6]

 

翌月の『印刷雑誌』昭和12年11月号には株主総会の報告が掲載されており、社屋の譲渡などは事実としてあらわれず、現状のままで営業を続行することを決定しているとあるが、〈今回事務員並に工場従業員を多数整理を為したため、その後始末が未だ終了していない模様〉と書いている[注7]。このリストラについて、板倉雅宣『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006)には〈12年10月、事業縮小のため従業員80名解雇、以来スト頻発、業績ますます不振になる〉とある。また〈ベントン母型彫刻機は前年(筆者注:昭和11年=1936)9月に凸版印刷に売却されている。〉と書かれている(下線筆者)[注8]

 

業績悪化のため、ベントン彫刻機は凸版印刷に売られてしまった。時期は昭和11年ごろ。更生にむけた従業員80名解雇という策もむなしく、多額の負債をかかえた築地活版は、昭和13年(1939)3月17日、臨時株主総会をひらいて解散。土地と建物は債権者である勧業銀行の手にわたった。明治6年(1873)の創業以来、66年にわたり日本の活字・印刷文化に貢献してきた同社の歴史は、ここで幕をとじた。

 

現在、日本には2台のATF製ベントン彫刻機がのこっている。

1台は、築地活版が2台目として入手し、凸版印刷にわたった機械(印刷博物館所蔵)。そしてもう1台は、三省堂・亀井寅雄が大正12年(1923)に入手した機械だ。東京・八王子にある三省堂印刷の工場に、いまも展示されている。

 

三省堂印刷の工場に展示されているATF製ベントン彫刻機

三省堂印刷の工場に展示されているATF製ベントン彫刻機

 

 

機械の銘板部分のアップ。AMERICAN TYPEFOUNDERS CO.」の文字が見える

機械の銘板部分のアップ。AMERICAN TYPEFOUNDERS CO.」の文字が見える

 

なお、増補で見てきた内容をふまえて、印刷局・築地活版・三省堂とベントン彫刻機の動きをあらためてまとめると、次のようになる。

 

■印刷局・築地活版・三省堂とベントン彫刻機について年表まとめ

  • 明治45年(1912) 印刷局がATFよりベントン彫刻機を1台購入
  • 大正8年(1919) 三省堂・亀井寅雄、印刷局でベントン彫刻機を知る
  • 大正10年(1921)5月 築地活版がATFよりベントン彫刻機を1台購入
  • 同年10月15日、三省堂・亀井寅雄、ベントン彫刻機入手を切望し欧米視察に出発
  • 大正11年(1922)春 三省堂・亀井寅雄、今井直一とともにリン・ボイド・ベントンに面会し、ATFにベントン彫刻機を注文
  • 同年 築地活版、2台目のベントン彫刻機をATFに注文
  • 大正11~12年(1922~23) 東京築地活版製造所、ベントン彫刻機を実用化
  • 大正12年(1923) 三省堂の注文していたベントン彫刻機1台と母型仕上機がATFより日本に到着
  • 大正12年(1923)9月1日 関東大震災起こる
  • 大正13年(1924) 築地活版に2台目のベントン彫刻機が到着
  • 大正13年(1924)9月 三省堂、蒲田工場が操業開始
  • 大正14年(1925)春 三省堂、ベントン彫刻機の荷ほどきをし、組み立てる→実用化へ
  • 昭和11年(1936)9月 築地活版、経営不振により、ベントン彫刻機を凸版印刷に売却
  • 昭和13年(1938)3月17日 築地活版、解散

※日本に現存しているATF製ベントン彫刻機は2台。凸版印刷(印刷博物館)と、三省堂印刷が所蔵

 

(増補おわり/連載は次回につづく)

 

[注]

  1. 佐藤敬之輔『ひらがな 上』丸善、1964)P.59
    ※ただし同書巻末P.137では昭和5年と記述。
  2. 田原恭一(凸版印刷)「凸版文久体 航海記」
    https://citpc.jp/article/2016_09.html
  3. 「雑報」『印刷雑誌』昭和8年5月号(印刷雑誌社、1933)P.60
  4. 「印刷所の顧問 印刷材料・機械仕入案内」『印刷雑誌』昭和10年4月号(印刷雑誌社、1935)P.23
  5. 「活版及活版印刷動向座談会――活版界の諸問題を諸権威が語る」『印刷雑誌』昭和10年5月号(印刷雑誌社、1935)P.21
  6. 「築地活版移転の噂」『印刷雑誌』昭和12年10月号(印刷雑誌社、1937)P.57-58
  7. 「築地活版更新す 新重役就任決定」『印刷雑誌』昭和12年11月号(印刷雑誌社、1938)P.56-57
  8. 板倉雅宣『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006)P.100

[参考文献]

  • 佐藤敬之輔『ひらがな 上』(丸善、1964)
  • 板倉雅宣『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006)
  • 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、今井直一「我が社の活字」(執筆は1950)
  • 「輪奐の美を極めて 築地活版の新建築復活」『印刷雑誌』大正13年8月号(印刷雑誌社、1924)
  • 「さすがは築地活版 至れり尽せる活字製造の設備」『印刷雑誌』大正15年10月号(印刷雑誌社、1926)
  • 宮崎榮太郎「活版界の一大損失 ――東京築地活版所の焼失――」『印刷雑誌』大正12年10月号(印刷雑誌社、1923)
  • 「輪奐の美を極めて 築地活版の新建築復活」『印刷雑誌』大正13年8月号(印刷雑誌社、1924)
  • 「罹災同業者巡り」『印刷雑誌』大正12年10月号(印刷雑誌社、1923)
  • 「壮なるかな復興の気分」『印刷雑誌』大正13年1月号(印刷雑誌社、1924)
  • 「印刷所の顧問 印刷材料・機械仕入案内」『印刷雑誌』昭和10年4月号(印刷雑誌社、1935)
  • 矢野道也「最近二十年間に於ける印刷術の発達」『印刷雑誌』明治43年1月号(印刷雑誌社、1910)
  • 矢野道也『印刷術 上巻』(丸善、1913)
  • 「活版及活版印刷動向座談会――活版界の諸問題を諸権威が語る」『印刷雑誌』昭和10年5月号(印刷雑誌社、1935)
  • 「築地活版移転の噂」『印刷雑誌』昭和12年10月号(印刷雑誌社、1937)
  • 『印刷雑誌』昭和12年11月号(印刷雑誌社、1938)
  • 印刷術各方面の現況(一)」『印刷雑誌』昭和6年10月号(印刷雑誌社、1931)
  • 『矢野道也伝記並論文集』(大蔵省印刷局、1956)
  • 「印刷局の応急復活」『印刷雑誌』大正13年1月号(印刷雑誌社、1924)
  • 「今後の活字に就て注意すべき点」『印刷雑誌』大正13年10月号(印刷雑誌社、1924)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本で3社しかもっていなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。