日本では明治末~大正にかけて、3社がアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)製ベントン彫刻機をもちいていた。三省堂よりさきに印刷局と東京築地活版製造所が入手していたことは、連載第11回「ベントンとの出会い」、第12回「印刷局とベントン彫刻機」でふれたとおりだ。しかしその後の調査で、あらたに見えてきたことがある。前回までで、東京築地活版製造所(築地活版)がATFから大正10年(1921)に購入したベントン彫刻機が関東大震災で焼失したこと、震災直後に2台目のベントン彫刻機が到着していたことにふれた。同社のベントン彫刻機その後について、つづけて見ていく。
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本連載第12回でもふれたとおり、東京築地活版製造所(築地活版)のベントン彫刻機活用について、三省堂の今井直一は〈同社がその後解散するまで、かなや数字を彫刻したのみで、明朝漢字には成功しなかったようである〉と書いた。[注1]
はたして築地活版のベントン彫刻機は、今井のいうような使用状況だったのだろうか。
板倉雅宣『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006)には、大正14年(1925)の項目につぎのように記されている。
五号明朝ベントン彫刻機により改刻
14年11月、『改刻明朝五号漢字総数9,570字見本帳』発行
板倉雅宣『活版印刷発達史』(印刷朝陽会、2006)[注2]
ベントン彫刻機によって改刻されたことは、上記のように見出しにあるのみ。その後に登場する「五号明朝」の項目は14年11月の『改刻明朝五号漢字総数9,570字見本帳』だけだ。漢字の改刻にもちいられたのだろうか?
大正15年(1926)の『印刷雑誌』10月号「さすがは築地活版 至れり尽せる活字製造の設備」では、震災後まもなく到着した2台目のベントン彫刻機について〈復興に大努力中の築地活版に偉大なる貢献をなした〉とし、ベントン彫刻機がいかに精密なしごとをするかを紹介している。同機で母型を彫刻する際の型となる「パターン(ここでは文字型板と書かれている)」の製作方法についてもふれられており、〈大きい文字原稿を描いてもよいのだけれども、現在では普通活字を印刷せるものを更に顕微鏡写真器で何十倍かに拡大しそれを修正して用いて居るのである〉とある。[注3]
ベントン彫刻機用にあらたに原字を描きおこすのではなく、既存の活字をきれいに印刷し(清刷り)、それを拡大、修正して原字を描いていたようだ。つまりこの時点では改刻にもちいており、新書体の彫刻では使っていないとかんがえられる。
さらに同記事ではつぎのようにのべており、ベントン彫刻機導入後も、築地活版が母型製作を完全に彫刻機のみに切り替えてはいないことがわかる。
此所から更らに旧来の字母製作部に入ると、数人の彫刻師が木の駒に種字を彫刻して居る。ベントンの能率と雖も、全部の母型を之れによって彫刻するまでには達しないので斯く旧来の方法をも講じつつあるのである。此処にも犠牲を払って、会社は特殊技工を養生しつつある。
「さすがは築地活版 至れり尽せる活字製造の設備」『印刷雑誌』大正15年10月号[注4]
また、同社ではベントンで彫刻した母型をそのまま使用するのではなく、あとから種字彫刻師が刀を入れて直すことが多かったようだ。『印刷雑誌』昭和10年5月号掲載の「活版及活版印刷動向座談会」で築地活版の技師・上原龍之介が
ベントンの彫刻機でもうまくゆかぬことがある。それは余りに正しい高低に彫れるからです。刎ね口や角の所では少し力がいるように、心持ち深めにするというこつがいるのです。そうでないと烏口で引いたようになってしまうのです。だからベントンで彫った種字には、あとで刀を入れる場合が多い。
「活版及活版印刷動向座談会」『印刷雑誌』昭和10年5月号[注5]
と発言している。
昭和8年(1933)には『印刷雑誌』5月号に「築地活版の細形九ポ」という記事がある。ここでは、細形9ポ活字のひらがなをベントン彫刻機で再刻しているとのべている。
京橋区築地、東京築地活版製造所は、近来小型活字の字体の華奢なるものが多く愛好さるる傾向にある点にかんがみて三四年以来細形九ポイント活字の新刻に努力中であったが、ここに約八千五百の字数を完成し広く発売することなった。本活字書体は、本号広告欄に掲載の通り従来の築地型と秀英型の各特徴を入れた優美温厚な風格のもの。同社では、更に平仮名につき一段の改良を加うるため、ベントン彫刻機により再刻中であるが、本活字普及のため、この際実費鋳込替の需めに応ずる筈である。
「雑報」『印刷雑誌』昭和8年5月号[注6]
昭和10年(1935)の『印刷雑誌』4月号では、築地活版の会社紹介の「特色」欄でまっさきにベントン彫刻機にふれており、ことごとくベントン彫刻機で母型を製作している、とある。
同社は母型彫刻機として無比の称ある米国活字鋳造会社製ベントン母型彫刻機を設備し、悉く本機により母型を製作す。本機はパントグラフの原理を応用せる精密彫刻機にして、微細なる金剛石針を以て直接マテに凹刻するを以て普通在来の種字より製作する母型に比し遥に正確精密なり。
「印刷所の顧問」『印刷雑誌』昭和10年4月号[注7]
具体的にどの母型をベントン彫刻機で彫ったのかは、筆者にはまだわからない。大正15年(1926)までは改刻に使用していたようだが、その後、あらたに原字をおこして新書体を彫刻したのかどうかも、現時点ではわからない。
しかし震災後の復興に偉大なる貢献をなしたとか、会社の特色としてまっさきにベントン彫刻機を挙げるという取り上げられ方をみると、本格的に活用していない機械をこんなふうに書くだろうか? という疑問がわく。築地活版ではベントン彫刻機をあるていどは活用していたようにもおもえる(使用範囲は依然不明ではあるが)。ただし母型製作を完全にベントン彫刻機に切り替えたのではなく、ベントン彫刻機で彫った母型にも職人が手を入れており、機械のみで彫刻が完結しているわけではなかった。
三省堂・今井直一がATFのリン・ボイド・ベントンに会ったのは大正11年(1922)春のこと(連載第15回参照)。この時期はまだ導入直後だったこともあり、築地活版ではベントン彫刻機を実用化できていなかった。だからリン・ボイド・ベントンは同社がベントン彫刻機を活用できていないと嘆き、今井に伝えたのではないだろうか。
築地活版も大切にしていたはずのベントン彫刻機。ところが同社は、この貴重な機械をやがて手放すことになる。
(つづく)
[参考文献]
- 板倉雅宣『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006)
- 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、今井直一「我が社の活字」(執筆は1950)
- 「さすがは築地活版 至れり尽せる活字製造の設備」『印刷雑誌』大正15年10月号(印刷雑誌社、1926)
- 「活版及活版印刷動向座談会――活版界の諸問題を諸権威が語る」『印刷雑誌』昭和10年5月号(印刷雑誌社、1935)
- 「雑報」『印刷雑誌』昭和8年5月号(印刷雑誌社、1933)
- 「印刷所の顧問 印刷材料・機械仕入案内」『印刷雑誌』昭和10年4月号(印刷雑誌社、1935)
[注]