「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第11回 ベントンとの出会い

筆者:
2018年12月19日

「なんとかして優良なる活字の字母をつくりたい」

そう切望しながらも、あらたな字母をつくるには数千字という種字を職人に手彫りしてもらわなくてはならないという現実を前に、三省堂の亀井寅雄は着手できずにいた。

 

そんな寅雄に大正8年(1919)、印刷局(現・国立印刷局)を見学する機会がおとずれた。ここで寅雄は、印刷局に字母(母型)の彫刻機械があることを知る。

 

この衝撃の出会いを、寅雄はこう書いている。

 

独逸製の字母彫刻機数台あり、これはパントグラフ式のものであった。其他にアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)のベントン式字母彫刻機が一台あったが、この機械を何とかして手に入れたいと考えた。しかしながらこの字母彫刻機は、同会社が優秀なる字母を製作して売り出すために発明した機械で、売品ではなかった。それがどうして印刷局にあったのか分らない。[注1]

 

ドイツ製の字母彫刻機は、おそらくデッケル社の彫刻機のことだろう。[注2] のちに日本でも国産化され、「汎用平面彫刻機」と呼ばれた機械で、現在もお札の彩紋[注3] や、いわゆる「機械彫刻書体」などの工業彫刻にもちいられている。[注4]

 

一方のアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF=American Type Founders)は、アメリカの活字鋳造会社だ。「ベントン式字母彫刻機」とは、のちに日本で「ベントン母型彫刻機」「ベントン彫刻機」と呼ばれるようになった機械で、金属の母型材に直接文字を凹刻して、活字鋳造にもちいる母型を製作するものである。同社の重役であったリン・ボイド・ベントン(Linn Boyd Benton 1844-1932)[注5] が、もともとは自社の活字鋳造用の父型を彫刻するための機械として、1885年(明治18)に考案した。

ATF製のベントン母型彫刻機

ATF製のベントン母型彫刻機(三省堂印刷所蔵)

ベントンは米国ミルウォーキーの、ノースウェスタン活字鋳造所の所有者で、優れた印刷家であったが、機械についても数多くの発明をもっていた。一八八五年(明治十八年)には、打ち込み母型[注6] を作るためのパンチ彫刻機を発明し、これによってライノタイプや、ランストン・モノタイプの母型製作を容易ならしめたといわれる。その後現在の如き精巧な母型彫刻機、及び仕上げ機械等を発明したのであるが、一八九二年(明治二十四年)に、二十二の活字鋳造会社が合併して、資本金五百万ドルのアメリカ活字鋳造会社が設立された時、ベントンの活字鋳造及び機械製作の事業一切を同会社に譲り、ベントン自身はその重役となり三十一年間機械部長の要職にあった。彼は活版界のエヂソンといわれたが、遂に八十九歳の高齢をもって一九三二年(昭和七年七月一日)長逝した。[注7]

 

寅雄が印刷局でこの機械に出会った当時、ベントン彫刻機は、日本にはまだ印刷局が所有するたった1台しか輸入されておらず、門外不出の秘蔵の機械といわれているものだった。

 

寅雄は決して、技師ではない。みずから母型を製造するわけでもなければ、機械の専門家でもない。しかしベントン彫刻機を見たとき、“長年自分が切望してきた「優秀なる字母」をつくるにはこれしかない” と直感がはたらいたのだろう。

 

「この秘蔵の機械を手に入れるにはどうしたらよいのか」

寅雄はそれ以来、ひそかにその機をねらうこととなる。[注1]

[注]

  1. 亀井寅雄「三省堂の印刷工場」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂社内資料、1955)P.5
  2. 矢作勝美『明朝活字の美しさ』(創元社、2011)ではこの「独逸製の字母彫刻機」のことを「ドイツのベルナー母型彫刻機」と書いているが(P.237)、筆者は大日本印刷や毎日新聞社への取材で、戦後、両社でデッケル社の彫刻機が活字彫刻に使用されていたとの証言を得たことから、「独逸製の字母彫刻機」は「デッケル社の彫刻機」だと推測している。
  3. 彩紋:紙幣や有価証券などの偽造防止を目的に図案のなかに入れられる、波状線や弧線、円形などを複雑に組み合わせた精密な幾何学的模様のこと。
  4. 日本では後年、新聞の見出し用活字などおおきなサイズの活字(母型ではなく、活字そのもの)の彫刻にもちいられることもあった。
  5. リン・ボイド・ベントンは、1892年にATFを設立。プロフィール詳細は、ライノタイプ社ウェブサイトを参照 https://www.linotype.com/2382/linn-boyd-benton.html
  6. 打ち込み母型:「パンチ母型」ともよばれる。活字と同じく凸型に彫刻した父型(種字)を真鍮の母型材などに打刻することでつくられた、活字を鋳造するための凹型(母型)。父型ひとつから母型を量産できるため、欧米ではおもにこの方法がもちいられていたが、画数のおおい漢字や、細い明朝体の文字は打刻の衝撃に耐えられないため、日本のパンチ母型が実用化するには昭和40年代(1970年代)ごろまで時間を要した。
  7. 今井直一「我が社の活字」『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂社内資料、1955)P.20

[参考文献]

  • 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、
    亀井寅雄「三省堂の印刷工場」
    今井直一「我が社の活字」
  • 『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)
  • 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
  • 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
  • 矢作勝美『明朝活字の美しさ』(創元社、2011)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本に3台しかなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。