「なんとかして優良なる活字の字母をつくりたい」
そう切望しながらも、あらたな字母をつくるには数千字という種字を職人に手彫りしてもらわなくてはならないという現実を前に、三省堂の亀井寅雄は着手できずにいた。
そんな寅雄に大正8年(1919)、印刷局(現・国立印刷局)を見学する機会がおとずれた。ここで寅雄は、印刷局に字母(母型)の彫刻機械があることを知る。
この衝撃の出会いを、寅雄はこう書いている。
独逸製の字母彫刻機数台あり、これはパントグラフ式のものであった。其他にアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)のベントン式字母彫刻機が一台あったが、この機械を何とかして手に入れたいと考えた。しかしながらこの字母彫刻機は、同会社が優秀なる字母を製作して売り出すために発明した機械で、売品ではなかった。それがどうして印刷局にあったのか分らない。[注1]
ドイツ製の字母彫刻機は、おそらくデッケル社の彫刻機のことだろう。[注2] のちに日本でも国産化され、「汎用平面彫刻機」と呼ばれた機械で、現在もお札の彩紋[注3] や、いわゆる「機械彫刻書体」などの工業彫刻にもちいられている。[注4]
一方のアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF=American Type Founders)は、アメリカの活字鋳造会社だ。「ベントン式字母彫刻機」とは、のちに日本で「ベントン母型彫刻機」「ベントン彫刻機」と呼ばれるようになった機械で、金属の母型材に直接文字を凹刻して、活字鋳造にもちいる母型を製作するものである。同社の重役であったリン・ボイド・ベントン(Linn Boyd Benton 1844-1932)[注5] が、もともとは自社の活字鋳造用の父型を彫刻するための機械として、1885年(明治18)に考案した。
ベントンは米国ミルウォーキーの、ノースウェスタン活字鋳造所の所有者で、優れた印刷家であったが、機械についても数多くの発明をもっていた。一八八五年(明治十八年)には、打ち込み母型[注6] を作るためのパンチ彫刻機を発明し、これによってライノタイプや、ランストン・モノタイプの母型製作を容易ならしめたといわれる。その後現在の如き精巧な母型彫刻機、及び仕上げ機械等を発明したのであるが、一八九二年(明治二十四年)に、二十二の活字鋳造会社が合併して、資本金五百万ドルのアメリカ活字鋳造会社が設立された時、ベントンの活字鋳造及び機械製作の事業一切を同会社に譲り、ベントン自身はその重役となり三十一年間機械部長の要職にあった。彼は活版界のエヂソンといわれたが、遂に八十九歳の高齢をもって一九三二年(昭和七年七月一日)長逝した。[注7]
寅雄が印刷局でこの機械に出会った当時、ベントン彫刻機は、日本にはまだ印刷局が所有するたった1台しか輸入されておらず、門外不出の秘蔵の機械といわれているものだった。
寅雄は決して、技師ではない。みずから母型を製造するわけでもなければ、機械の専門家でもない。しかしベントン彫刻機を見たとき、“長年自分が切望してきた「優秀なる字母」をつくるにはこれしかない” と直感がはたらいたのだろう。
「この秘蔵の機械を手に入れるにはどうしたらよいのか」
寅雄はそれ以来、ひそかにその機をねらうこととなる。[注1]
[参考文献]
- 『昭和三十年十一月調製 三省堂歴史資料(二)』(三省堂、1955)から、
亀井寅雄「三省堂の印刷工場」
今井直一「我が社の活字」 - 『亀井寅雄追憶記』(故亀井寅雄追憶記編纂準備会、1956)
- 亀井寅雄 述/藤原楚水 筆録『三省堂を語る』(三省堂、1979)
- 『三省堂の百年』(三省堂、1982)
- 矢作勝美『明朝活字の美しさ』(創元社、2011)
[注]