「書体」が生まれる―ベントンがひらいた文字デザイン

第29回 増補:築地活版とベントン彫刻機③ もう1台のベントン

筆者:
2019年9月4日

日本では明治末~大正にかけて、3社がアメリカン・タイプ・ファウンダース(ATF)製ベントン彫刻機をもちいていた。三省堂よりさきに印刷局と東京築地活版製造所が入手していたことは、連載第11回「ベントンとの出会い」第12回「印刷局とベントン彫刻機」でふれたとおりだ。しかしその後の調査で、あらたに見えてきたことがある。前回までで、東京築地活版製造所(築地活版)がATFから大正10年(1921)に購入したベントン彫刻機が関東大震災で焼失したことにふれた。同社のベントン彫刻機その後について、つづけて見ていく。

 

 

大正12年(1923)9月1日の関東大震災は大規模火災を引き起こし、東京築地活版製造所(築地活版)は同年7月に竣工したばかりの本社新社屋をうしなった。同社の生命ともいえる母型も、すべてではないが焼けてしまった。そして、ATFから購入したベントン彫刻機――日本で2台目のATF製ベントン――も灰となってしまった。

 

しかし実は築地活版は、震災前年の大正11年(1922)に、ベントン彫刻機をもう1台ATFに注文していた。[注1] 製造に時間がかかっていたことが幸いして、同社2台目のベントン彫刻機は罹災をまぬがれたのだ。[注2]

 

関東大震災の翌年、大正13年(1924)7月19日。罹災した築地活版本社建物の補修が完了した。140坪4階建て鉄筋コンクリート造、高さ60尺余。1階は事務室、2階は販売活字ケース、母型彫刻室、母型製造室、3階は仕上げとケース、4階は鋳造場で、60余台の鋳造機と、5台のトムソン自動鋳造機が稼働した。[注3] あたらしい本社には、関東大震災による火災の経験から、母型のための耐火倉庫も建造した。[注4]

 

新築された築地活版の本社社屋(『活字と機械』(東京築地活版製造所、1935)

新築された築地活版の本社社屋(『活字と機械』(東京築地活版製造所、1935)

 

2台目のベントン彫刻機も到着した。おなじく大正13年(1924)の『印刷雑誌』8月号で、築地活版の社長・野村宗十郎がこう語っている。

 

御承知の如く今度の事変で、万事を焼いた会社は金もあまりないが、多年の信用から金融も滞りなくつき、華客にも同情をつなぎ得、社員も工場員も昼夜の分ちなく働くという状態で、前途は吾れながら楽観して居る。ただ母型という厄介なものを失ったので、この恢復が容易でないけれ共、米国に注文した母型彫刻機も到着したから(下線筆者)完全なものが案外早く供給されそうだ。

「輪奐の美を極めて 築地活版の新建築復活」『印刷雑誌』大正13年8月号[注5]

 

これまで「明治末から大正時代にかけて、日本には3台のATF製ベントン彫刻機があり、印刷局、築地活版、三省堂の3社がこれを使っていた」といわれていた。ところが、使っていた会社は3社だったが、築地活版が2台購入していたため、ATF製ベントン彫刻機自体は日本に4台が輸入されていたのだ。ただ、築地活版のベントン彫刻機は2台同時には存在しなかったため、ぜんぶで3台といわれていたのだろう。

 

なお、本連載第23回の注釈でもふれたが、日本のベントン彫刻機入手について、Theo Rehak『Practical Typecasting』(OAK KNOLL BOOKS、1993)に、1920年代はじめに日本政府または政府の請負業者がNo.61とNo.62、2台のベントン彫刻機を購入したこと、納品までに1年近くかかったことを、ATFの職工長だったJohn Bauerが(当時の偏見もあって)辛辣なコメントとともに記録していたという記述がある。[注6]

 

同書に掲載された写真を見ると、John Bauer文書の封筒(または表紙)には「Matrix Eng Machine for Japan #61 #62」「Records & Diary」と書かれている。「Matrix Eng Machine」は、母型が彫れる改良型ベントン彫刻機を指している。「日本政府または政府の請負業者」とあるが、印刷局が震災前後にATFのベントン彫刻機を購入した記録はいまのところ見つけられておらず、年代から見て、関東大震災前後に日本に到着した三省堂(1923年)、そして築地活版2台目のベントン彫刻機(1924年)のことではないかと推測している。

 

(つづく)

 

[注]

  1. 板倉雅宣『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006)P.91に〈11年、ベントン彫刻機を輸入。〉とある。ここで注文したベントン彫刻機が、関東大震災後まもなく到着したものとおもわれる。
  2. 「さすがは築地活版 至れり尽せる活字製造の設備」『印刷雑誌』大正15年10月号(印刷雑誌社、1926)P.10〈震災数年前に、世界唯一ともいうべき米国のベントン母型彫刻機を購入した。当時同機の価格は二万円を超えたのであったが、会社は思い切って之を設備し、更らに一台を注文注であった。同機は米国鋳造会社が、自ら発明し、自らの用として製造するに過ぎず、同社の偉大を以てしても七、八台を有するに過ぎないのであるから、製造に長時を要するのであった。この事が幸いとなって、最初の一台は震火のため亡失しても、第二の機械は災後間もなく到着して、復興に大努力中の築地活版い偉大なる貢献をなした。〉
  3. 板倉雅宣『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006)P.93
  4. 「輪奐の美を極めて 築地活版の新建築復活」『印刷雑誌』大正13年8月号(印刷雑誌社、1924)P.31
  5. 同 P.32
  6. Theo Rehak『Practical Typecasting』(OAK KNOLL BOOKS、1993)P.107

[参考文献]

  • 板倉雅宣『活版印刷発達史 東京築地活版製造所の果たした役割』(印刷朝陽会、2006)
  • 「輪奐の美を極めて 築地活版の新建築復活」『印刷雑誌』大正13年8月号(印刷雑誌社、1924)
  • Theo Rehak『Practical Typecasting』(OAK KNOLL BOOKS、1993)

筆者プロフィール

雪 朱里 ( ゆき・あかり)

ライター、編集者。

1971年生まれ。写植からDTPへの移行期に印刷会社に在籍後、ビジネス系専門誌の編集長を経て、2000年よりフリーランス。文字、デザイン、印刷、手仕事などの分野で取材執筆活動をおこなう。著書に『描き文字のデザイン』『もじ部 書体デザイナーに聞くデザインの背景・フォント選びと使い方のコツ』(グラフィック社)、『文字をつくる 9人の書体デザイナー』(誠文堂新光社)、『活字地金彫刻師 清水金之助』(清水金之助の本をつくる会)、編集担当書籍に『ぼくのつくった書体の話 活字と写植、そして小塚書体のデザイン』(小塚昌彦著、グラフィック社)ほか。『デザインのひきだし』誌(グラフィック社)レギュラー編集者もつとめる。

編集部から

ときは大正、関東大震災の混乱のさなか、三省堂はベントン母型彫刻機をやっと入手した。この機械は、当時、国立印刷局と築地活版、そして三省堂と日本で3社しかもっていなかった。
その後、昭和初期には漢字の彫刻に着手。「辞典用の活字とは、国語の基本」という教育のもと、「見た目にも麗しく、安定感があり、読みやすい書体」の開発が進んだ。
……ここまでは三省堂の社史を読めばわかること。しかし、それはどんな時代であったか。そこにどんな人と人とのかかわり、会社と会社との関係があったか。その後の「文字」「印刷」「出版」にどのような影響があったか。
文字・印刷などのフィールドで活躍する雪朱里さんが、当時の資料を読み解き、関係者への取材を重ねて見えてきたことを書きつづります。
水曜日(当面は隔週で)の掲載を予定しております。