「百学連環」を読む

第47回 知行とはなにか

筆者:
2012年3月2日

さて、前回予告したように、ここから話の調子が変わります。まずは読んでみましょう。

學術の根源なるものあり。知行の二ツ是なり。知行はいかにしても區別あるものにして、一ツとなして見る能はさるものなり。

(「百學連環」第9段落第1~3文)

 

「知行」という言葉が出てきました。訳してみます。

学術の根源がある。「知行」の二つがそれである。知と行はどうあっても区別されるものであって、両者を一つのものと見ることはできない。

しばらく英語交じりの文章が続いた後ということもあって、突如漢語調が前面に出て、少し面食らいます。学術の根源は「知」と「行」の二つだというわけです。

直前で、ヨーロッパ流の学術観を紹介して、「学」にも「術」にも「観察(theory)」と「実際(practice)」があると論じていたところ。そこに「知」と「行」が並ぶと、なんとなく脈絡がつくようにも感じます。

つまり、「知」と「観察」が、「行」と「実際」がそれぞれ対応するという感じです。なにやら話はつながっている。けれども、なぜ知行が持ち出されてきたのかは、まだ分かりません。あくまで「感じ」と述べた所以です。

しかも、面白いことに、「知行はいかにしても區別あるものにして」と来ました。少し強く読み込めば、「知」と「行」は絶対に區別されるものだと言いたいようにも思えます。あたかも西先生の目の前に「いや、知と行は一つなり!」と異論を唱える相手がいるかのような力みよう、という空想が思わず働きます。

なにが言われようとしているのか、たいそう気になりますが、解釈する前に、もう少し西先生の言葉に耳を傾けてみます。こう続きます。

知の源は五官の感する所より發して、外より内に入り來るものなり。行は其知に就て内より外に出るを云ふなり。

(「百學連環」第9段落第4~5文)

 

「五官」というわけですから、人間の心身も視野に入ってきました。現代語にしておきましょう。

「知」の源は、五官〔感覚器官〕が感覚するところから発して、〔人間の〕外から内へと入ってくるものである。「行」はその知に従って内から外に出るものを言うのである。

どうやら先ほど持ち出された「知」と「行」の違いが論じられているようです。人間を一種の境界面とすれば、「知」と「行」が互いに逆向きに動く様が描かれていますね。つまり、「知」は外から感覚を介して人間に入ってくるもの。「行」は知に従って内から人間の外へと出てゆくもの。少し前に上下という垂直方向の喩えが出てきましたが、今度は内と外です。しかも出入りするのですから、知行は運動するなにものかでもあるようです。

もう一つ気になるのは、「行」は「知」に従うと指摘されているけれど、逆はそうした関係が指摘されていないというところ。「知」は「行」に「就」いたりしないのでしょうか。

などなど、謎が謎を呼ぶ展開ですが、実はこれ、明治知識人の面目躍如たる議論なのです。西先生は、たんにヨーロッパの「新しい」学術を学んだだけでなく、それ以外の、あるいは、それ以前の教養も具え併せていることが、いま読んでいるくだりには現れているのです。

それはなにか。次回、さらに読み進めながら検討して参りましょう。

筆者プロフィール

山本 貴光 ( やまもと・たかみつ)

文筆家・ゲーム作家。
1994年から2004年までコーエーにてゲーム制作(企画/プログラム)に従事の後、フリーランス。現在、東京ネットウエイブ(ゲームデザイン)、一橋大学(映像文化論)で非常勤講師を務める。代表作に、ゲーム:『That’s QT』、『戦国無双』など。書籍:『心脳問題――「脳の世紀」を生き抜く』(吉川浩満と共著、朝日出版社)、『問題がモンダイなのだ』(吉川浩満と共著、ちくまプリマー新書)、『デバッグではじめるCプログラミング』(翔泳社)、『コンピュータのひみつ』(朝日出版社)など。翻訳書:ジョン・サール『MiND――心の哲学』(吉川浩満と共訳、朝日出版社)ジマーマン+サレン『ルールズ・オブ・プレイ』(ソフトバンククリエイティブ)など。目下は、雑誌『考える人』(新潮社)で、「文体百般――ことばのスタイルこそ思考のスタイルである」、朝日出版社第二編集部ブログで「ブックガイド――書物の海のアルゴノート」を連載中。「新たなる百学連環」を構想中。
URL:作品メモランダム(//d.hatena.ne.jp/yakumoizuru/
twitter ID: yakumoizuru

『「百学連環」を読む 』

編集部から

細分化していく科学、遠くなっていく専門家と市民。
深く深く穴を掘っていくうちに、何の穴を掘っていたのだかわからなくなるような……。
しかし、コトは互いに関わり、また、関わることをやめることはできません。
専門特化していくことで見えてくることと、少し引いて全体を俯瞰することで見えてくること。
時は明治。一人の目による、ものの見方に学ぶことはあるのではないか。
編集部のリクエストがかない、連載がスタートしました。毎週金曜日に掲載いたします。