さて、前回予告したように、ここから話の調子が変わります。まずは読んでみましょう。
學術の根源なるものあり。知行の二ツ是なり。知行はいかにしても區別あるものにして、一ツとなして見る能はさるものなり。
(「百學連環」第9段落第1~3文)
「知行」という言葉が出てきました。訳してみます。
学術の根源がある。「知行」の二つがそれである。知と行はどうあっても区別されるものであって、両者を一つのものと見ることはできない。
しばらく英語交じりの文章が続いた後ということもあって、突如漢語調が前面に出て、少し面食らいます。学術の根源は「知」と「行」の二つだというわけです。
直前で、ヨーロッパ流の学術観を紹介して、「学」にも「術」にも「観察(theory)」と「実際(practice)」があると論じていたところ。そこに「知」と「行」が並ぶと、なんとなく脈絡がつくようにも感じます。
つまり、「知」と「観察」が、「行」と「実際」がそれぞれ対応するという感じです。なにやら話はつながっている。けれども、なぜ知行が持ち出されてきたのかは、まだ分かりません。あくまで「感じ」と述べた所以です。
しかも、面白いことに、「知行はいかにしても區別あるものにして」と来ました。少し強く読み込めば、「知」と「行」は絶対に區別されるものだと言いたいようにも思えます。あたかも西先生の目の前に「いや、知と行は一つなり!」と異論を唱える相手がいるかのような力みよう、という空想が思わず働きます。
なにが言われようとしているのか、たいそう気になりますが、解釈する前に、もう少し西先生の言葉に耳を傾けてみます。こう続きます。
知の源は五官の感する所より發して、外より内に入り來るものなり。行は其知に就て内より外に出るを云ふなり。
(「百學連環」第9段落第4~5文)
「五官」というわけですから、人間の心身も視野に入ってきました。現代語にしておきましょう。
「知」の源は、五官〔感覚器官〕が感覚するところから発して、〔人間の〕外から内へと入ってくるものである。「行」はその知に従って内から外に出るものを言うのである。
どうやら先ほど持ち出された「知」と「行」の違いが論じられているようです。人間を一種の境界面とすれば、「知」と「行」が互いに逆向きに動く様が描かれていますね。つまり、「知」は外から感覚を介して人間に入ってくるもの。「行」は知に従って内から人間の外へと出てゆくもの。少し前に上下という垂直方向の喩えが出てきましたが、今度は内と外です。しかも出入りするのですから、知行は運動するなにものかでもあるようです。
もう一つ気になるのは、「行」は「知」に従うと指摘されているけれど、逆はそうした関係が指摘されていないというところ。「知」は「行」に「就」いたりしないのでしょうか。
などなど、謎が謎を呼ぶ展開ですが、実はこれ、明治知識人の面目躍如たる議論なのです。西先生は、たんにヨーロッパの「新しい」学術を学んだだけでなく、それ以外の、あるいは、それ以前の教養も具え併せていることが、いま読んでいるくだりには現れているのです。
それはなにか。次回、さらに読み進めながら検討して参りましょう。