およそ学たるものには実験があるという議論が続きます。
又 Empiric と云ふあり。卽ち希臘の Εμπειρικος なり。此語古昔は用へすと雖も、近來は學術の中なかるへからさるもの〔に〕し〔て〕貴ひ用ゆるなり。こは物をあてはめるといふ字義にして experience と意を同ふし、卽ち實事に就て學ふを云ふなり。かく近來專ら Empiric と云ふを用ゆるも、蓋シ學者徒らに文事等を學術となし、空理に趨るを防く爲めなり。故に Literature, instrument, institution, these all are the means of investigating one end. 卽ち其目的とは The one end is called truth.
(「百學連環」第35段落)
以上の文章のうち、以下の英単語の左に訳語が添えられています。
means 方便テ
investigating 穿鑿
truth 眞理
では、訳してみましょう。
また、Empiric〔経験主義〕というものもある。これは、古典ギリシア語の Εμπειρικος(エンペイリコス)に由来する。この語は、古くは使われていなかったものだが、近年の学術では欠かせないものとして貴ばれている。これは「ものをあてはめる」という字義であり、experience と同じ意味を持つ。つまり、実事について学ぶことを意味しているのである。近年もっぱら Empiric のほうが使われるのは、学者がいたずらに文事など〔のみ〕を学術とみなして空理に向かってしまうのを防ぐためである。したがって、文章(Literature)、装置(instrument)、施設(institution)、これらはいずれも一つの目的を研究するための手段である。その目的とは、つまり「真理」のことである。
ここでは、前回の「実験」「観察(Observation)」「試験(Experience)」の議論に続けて Empiric という語が俎上に載せられています。Empiricについては、古典ギリシア語の語源を確認していることもあって、訳さず原語のままにしておきました。
そのエンペイリコス(Εμπειρικος)は、「経験がある」という意味の言葉で、伝聞などの知識だけではなく自分で経験したという含意があります。またこの言葉は、西洋における医術の歴史にも見えるもので、理論を重視する「方法派(メトディコイ)」に対して「経験派(エンペイリコイ)」という立場がありました。西暦2から3世紀に活躍した人に、セクストゥス・エンペイリコスという医者もいました。
こうした言葉に根を持つ英語の Empiric は、「経験主義者」と訳されます。ただ、面白いことには、辞書でこの項目を引くと、「経験主義者」だけでなく、「経験だけに頼る人」、さらには古い用法として「藪医者」「偽医者」という否定的な意味も併記されています。
西先生の説明の文脈では、書物だけに頼った知識や理屈だけでは足りず、経験や実験による実証が大切だというふうに強調されています。今回読んでいるくだりでも、経験主義という言葉には、文事だけで学術でございと称す学者に釘を刺す意義があるのだと論じられていますね。
しかし、いま見たように、「経験主義(Empiric)」にも問題なしとは言えないわけです。なぜ経験主義が悪口にもなるのかといえば、人間が獲得する知識のうちには、一人の人間が自分で経験できる範囲とそうでない範囲があるからだと思います。つまり、自分の経験に基づいて物事を判断するのはよいとしても、それだけでは足りない。なぜかといえば、自分が知らないだけで、他の誰かが明らかにしたり、実証したりした知識のうちにも、確かな知識、知っていれば活用できるが知識がありえるからです。
そうであるにもかかわらず、経験だけにこだわって、自分が経験していない知識を全て退けてしまうとしたら、果たしてそれで十分な対処ができるだろうか。こうした経験主義に対する批判が、「経験だけに頼る人」や「藪医者」という意味の裏にあるのではないかと思います。
西洋哲学の文脈では、これも古来、経験主義(empiricism)と合理(理性)主義(rationalism)の対立として、連綿と議論が闘わされ、変奏され続けてきた大きな問題でもあります。大まかに言えば、前者はその名の通り、経験を重んじる立場であり、後者は個々の経験よりも、個物全般に該当するような普遍的なもの、一般的なものを重視する立場です。
物事はいつも理論(一般的な説明)通りになるとは限らない。さりとて、理論的な見方を持たずに目の前の経験だけで事が足りるのか。ここには、世界や森羅万象を理解し、記述しようとする学術の全領域に関わる根深い問題があるのです。
話を整理する都合上、仮に「理論」と「経験」という言葉にそれぞれの立場を代表させるとすると、問題はこの両者をどう関係づけるかということになります。まさに学術の「連環」が問われる場面というわけです。さて、この巨大な問題について、西先生はどのように考えているのでしょうか。
今回読んだ箇所では、ここ数回にわたって論じられてきた、文章(Literature)、装置(instrument)、施設(institution)について、最後に総括されています。これらは全て真理を探究するための手段であるという次第です。そして、話は少しずつ学術の目的である「真理」のほうへと向かってゆきます。