前回は、西先生が「演繹(deduction)」という概念について、具体例を使って解説しているくだりを読みました。猫とネズミという意表を衝く譬えでしたね。
参考までに現在の辞書ではこの言葉をどのように説明しているか覗いておきましょう。『新明解国語辞典 第七版』(三省堂)には、こう見えます。
――する(他サ) 一般的な原理から、論理の手続きを踏んで個個の事実や命題を推論すること(考え方)。←→帰納
「一般的な原理」、つまり個々の物事ではなくさまざまな物事に共通して該当するような基本となる理(ことわり)から、論理のやり方によって個別の事実や命題を推して論じることだ、というわけです。この語釈で「一般的な原理」と書かれているところが、西先生の言う「其の重なる所」に該当するわけです。
もう一つ、『新潮現代国語辞典 第二版』(新潮社)も見てみます。
(「繹」は引く、引き伸ばす、の意)(名・スル他動)(一)一つのことから意味を押し広げて述べること。(二)(deduction)一般的な原理から特殊な事柄を経験によらず必然的・論理的結論として推論すること。←→帰納〔西・致知〕
(ただし、(一)(二)は紙面では○に漢数字)
この語釈では、いわば広義と狭義の二つが示されています。広義のほうは、論理とは少し離れて、一つのことをもとにして、そこから意味を広げてゆく様だというわけです。
狭義のほうは、『新明解国語辞典』と同様に、論理学における「演繹」の意味を示しています。その語釈は、『新明解』とほぼ同様ですが、一点目を惹くのは、「経験によらず」という一文でしょうか。論理だけによって推論を行うということを、さらに強調する表現になっていますね。
末尾に添えられた〔西・致知〕とは、出典名です。これは第85回で触れた西先生の『致知啓蒙』のことです。
また、どちらの辞書も「演繹」を「帰納」とセットで見るようにと指示していることにも注意しておきましょう。西先生も、演繹と帰納の二つを並べて論じているのでした。
では、以上の語釈を念頭に置きつつ、西先生の講義の続きを読んで参りましょう。
凡そ學たる演繹歸納の二ツにして、古來皆演繹の學なるか故に、前にもいへる如く其一ツの據ありて、何もかもそれより仕出す。故に終に其郭を脱すること能はすして、固陋頑愚に陥るなり。是卽ち實知なることなくして唯書籍手寄りの學にして、己レ書籍を役すること能はす、却て是か奴隷となり役使せらるゝなり。
(「百學連環」第38段落第1文~第3文)
ここで区切りましょう。訳してみます。
一般に学には、演繹と帰納の二つ〔の方法〕がある。古来、どれもこれも演繹の学だったため、前にも述べたように、一つの重要な拠り所があって、なんでもかんでもそこから引っ張り出すという具合である。だから、ついにその囲いから出ることができず、見聞が狭く頑固なため道理に暗いという状態に陥ってしまうのだ。これはつまり、実際の知にならず、ただ書籍だけを手がかりとするような学であって、これでは書籍を自分の役に立てることはできず、かえって反対に自分のほうが書籍の奴隷となって使役されてしまうことになる。
ご覧のように、西先生は従来の演繹による学の問題点を指摘しています。先に見た現代の日本語辞典の語釈を借りて言い換えれば、演繹という方法では、経験によらず、一般的な原理から論理によってなんでもかんでも引っ張り出すというやり方をする、となるでしょうか。だから、拠り所にした「一般的な原理」という「郭(囲い)」から出ることができないのだ、というわけです。
しかし、それでは「実知」ならぬ本のみを手がかりとする知、机上の知になってしまう。そうなれば、本に収められた知を使うどころか、本の奴隷になってしまうではないか。いろいろなことを連想させる指摘ですが、それは措くとして、これは第80回で見た「書籍上の論」に通じる議論ですね。
ここで「実知」とは、これまでの議論の文脈を踏まえるなら、実験や実証で確認された知ということになるでしょう。上のほうで見た『新潮現代国語辞典』の「演繹」の語釈にあった「経験によらず」という言葉とも呼応するところであります。