図鑑は愉しい!

第1回 「見る」と「読む」が溶け合う瞬間

筆者:
2015年1月16日

お手軽な電子辞書(和英)に「図鑑」と入力したら、"illustrated book"とか"picture book"と出てきたので笑ってしまった。文字を書き、文字を編集することを生業としてきた私にとって、前者は「挿絵入りの本」であり、後者は「絵本」。どちらも本(book)には違いないがジャンルは異なる。そしてどちらも、私のイメージする図鑑とは異なっていた。挿絵入りの本は「読む」もので、図鑑は「見る」もの、そして絵本はその中間の揺れる領域にある。そんなふうに思っていたのだが……。

見る、とはいかなる行為か。

デジカメでばちばち写真を撮る人は、いま見た光景をそのままに切り取っているつもりかもしれない。でも、いかに解像度の高いカメラで切り取った画像も近視&乱視の裸眼がとらえる光景のほんの一部でしかない。最先端の3D映像は私たちの生物的な視覚体験を誇張して見せるけれど、見たままを再現してはいない。

カメラというツールを発明した人は、たぶん私たちの見たままを記録&再現したいと考えていた。でも結果としてカメラが与えてくれたのは、私たちが見ていない、あるいは見ようとしない光景をとらえる機会だった。試みに、カメラを地面に押しつけてシャッターを押してみるといい。そこに記録&再現されるのは地を這う虫の目に映る世界。むこうから歩いてくるニンゲンの靴は戦車のように巨大だ。そのとき私たちは、たとえばゴキブリから見たこの世界がいかに悪意と危険に満ちているかを知ることになる。

読む、とはいかなる行為か。

たいていの人は、文字を見る(盲人であれば点字に触れる)という行為を通じてテキストを読む。しかし、かつては文字に頼らず民族の記憶を「詠む=語る」時代があった。キリスト教以前の古代ケルト人は、実利的なものごとの記録には文字を用いたが、民族の記憶(思想や宗教)の伝承には文字を用いなかった。目で読むだけでは足りない、五感を総動員して朗誦を聞かなければ深い思いは伝わらないと知っていたからだ。

折口信夫が小説『死者の書』(1943年、青磁社刊)によみがえらせた伝説の中将姫は経文を読み、写経を繰り返すうちに仏の姿を見、その仏と通じ、その仏の「色身の幻」を描いたつもりが曼荼羅の図になっていたとされる。それが今に伝わる當麻寺(奈良県)秘蔵の国宝「當麻曼荼羅」。読み、書き写し、書く(ときには語る)という行為の追体験を重ねるうちに、凡人には見えないはずの極楽浄土が中将姫には見えてしまった。

ありそうなことだ。見る、読む、見る、読む。その繰り返しから一歩踏み出して書く・語るの追体験を積み重ねた先に、おのずから書く・描く行為が生まれる。中将姫ほどドラマチックではないけれど、私たちもいつの日か自分の文章が曼荼羅を結ぶと信じて書き続けている。かっこうよく言えば、それが「もの書き」の生きざまだ。

もちろん、たいていのもの書きは曼荼羅までたどりつけない。だからフラストレーションがたまる。そんなとき、心をなごませてくれるのが図鑑だ。良質な図鑑は曼荼羅に似ている。どちらも「見る」と「読む」の果てしない反復から私たちを救い、見る体験と読む体験の溶け合った至福の瞬間(見て読んで見て、そこで思考を停止できる瞬間)を与えてくれる。

あえて一冊の名をあげれば、私にとってはヴォルフ=ハイデガーの『人体解剖学アトラス』だ。書名は「アトラス」だが、600ページを超す立派な人体解剖図鑑である(私の手元にあるのは第4版の邦訳で、1993年に西村書店から刊行されたもの)。医者を志す人にとっては丸暗記すべき憂鬱な教科書かもしれないが、門外漢にはまさしく魅惑の人体曼荼羅。目や耳、あるいは生殖器の構造とかを見つめていると、無神論者の私でもそこに神か仏の意思(のようなもの)の介在を想定したくなる。そのうちにヒトの生殖器と植物の生殖器(雄しべ、雌しべ)の形が似ているのは神様のいたずらかなどと妄想が膨らみ、そうなると今度は精密に描かれた大判の植物図鑑で、たとえばランの花とかの形状を確かめたくなる。

民間のシンクタンクや政府の役人が好んで使う言葉に「見える化」というのがある。目で見たり肌で感じたりしにくい社会的な問題を、コンピュータを駆使したデータ処理とグラフィックなプレゼンテーションで見えやすくする行為をさす(たとえば家庭の電力消費量をリアルタイムで、グラフ化して台所のモニターに映し出せば電力の無駄づかいが「見える化」され、節電につながる、みたいな文脈で使われる)。でも液晶モニターやパワーポイントに頼らずとも、見えにくいものごとを「見える化」するツールは昔からあった。中将姫の曼荼羅や、疲れを知らぬ職人たちが根気よく描きあげた図鑑がそうだ。

『経営学大図鑑』 ちょっと宣伝めいてしまうけれど、私にも先ごろ翻訳者として図鑑の仕事にかかわる機会があった。題して『経営学大図鑑』。図鑑と呼ぶには文字量が多すぎる気もするが、文字で説明しにくい概念やアイデアをたくさんの図で示しているから、図鑑を名乗る資格はありそうだ。原題は"The Business Book"。言うまでもないが、英語の"the Book"はキリスト教の聖書をさす。出版社が真面目だから邦訳の題名は『経営学大図鑑』になったが、個人的には「ビジネス曼荼羅」とか「現代資本主義曼荼羅」にしたかった。好き嫌いは別として、今日的な資本主義の世界観を巧みに「見える化」した本だから。

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筆者プロフィール

沢田 博 ( さわだ・ひろし)

1952年東京都生まれ。「ニューズウィーク日本版」編集顧問。翻訳家。
編著書に『ジャーナリズム翻訳入門』(バベルプレス)、『キーワードで読むジャパンタイムズニュースダイジェスト2012→2013』(ジャパンタイムズ)など。訳書にウォマックほか『リーン生産方式が、世界の自動車産業をこう変える。』(経済界)、R・ブランソン『宙へ挑む』(アルファポリス)、M・グラッドウェル『第1感』(共訳、光文社)ほか多数。

編集部から

人はどんなときに「図鑑」を手に取るのでしょうか。調べものをするとき。既存の知識を確認するとき。暇つぶし。眠気覚まし。答えは人それぞれのようです。

このリレー連載では、図鑑の作り手や売り手、愛読者に、図鑑にまつわる思い出や、図鑑の愉しみ方を語ってもらいます。月2回、第1・第3金曜更新。

第1回の執筆者は、「図書新聞」「ニューズウィーク日本版」「エスクァイア日本版」の編集長を歴任したジャーナリストの沢田博さんです。