帰納法の説明がなおも続きます。前回のカラス、火、水の例に続けて次のように論じられます。
西洋古昔ニュトンなる人、林檎の實の樹より地に落しを見て地球の引力あるを發明せしか如く、地に落るは唯林檎のみならす、石にもあれ、木の葉にもあれ、總て空より上へ落ることなく皆下に落るは地球引力あるの眞理なり。
(「百學連環」第39段落第11文)
では、訳してみましょう。
西洋に昔、ニュートンという人がいた。彼はリンゴの実が樹から地面に落ちるのを見て、地球に引力があることを発見した。そのようにして、地面に落ちるのはリンゴだけでなく、石もそうなら、木の葉もそうであり、どの場合も空から上に向かって落ちるということはなく、すべて下に向かって落ちるのは、地球の引力があるという真理によるのである。
これはアイザック・ニュートンについてよく知られている逸話ですね。本当にニュートン本人がそう述べたかどうかは別として、現在でもニュートンといえば枕詞のように引き合いに出されるお話です。真偽はともかく、一度聴いたら忘れがたく、それだけよく出来た話だとも言えるでしょう。
西先生は、目下のところ論理学の帰納法について解説しているところでした。その流れの中で、このようにニュートンの逸話が持ち出されています。
この例のポイントは、個別具体例と真理の関係を示しているところです。つまり、リンゴは地面に向かって落ちる。それはリンゴだけじゃない。石でも、木の葉でも、その他なんでもそのようにして地面に落ちる。こうした具体的な個々の事例が成り立つのは、一般に地球に引力があるという真理によるのだ、という具合です。
ちなみに、「引力」については「百学連環」第二編の「第二 Physical Science 物理上學」の冒頭に置かれた「第一 Physics 格物學」の中でも、「引力とは萬有互に引くの力にして、譬へは地球に萬有悉く落るか如し。」(『西周全集』第四巻、p.264)と改めて説明されています。
また、ニュートンについても、同じ「第一 Physics 格物學」で、「格物學の随一と稱する人」として紹介し、「英國の Lincolnshire なる地の産にて、inflection, gravitation 重力を發明し、且つ Philosphiae Naturalis Principia Mathematica 數學上の格物論と譯する書を著せり。」(前掲同書、p. 268)と手短に要点を述べています。
さて、話を戻しますと、講義は次のように続きます。
factなるあり。何事にもあれ許多を集めて其中眞理一ツなるを知るなり。譬へは今試に石を投けても地に落ち、木の葉を投けても地に落ち、綿を投けても鉛を投けても鐵を投けても悉く地に落るを知る。是卽ちfactにして、悉く地に落るは眞理の一ツなるものなり。
(「百學連環」第39段落第12文~15文)
現代語に訳してみます。
「事実(fact)」というものがある。何事であれ、多くの事例を集めて、それらの事例に〔通底している〕真理が一つであることが分かるということだ。例えば、いま試しに石を投げれば地面に落ちる。木の葉を投げても地面に落ちる。綿を投げても、鉛を投げても、鉄を投げても、ことごとく地面に落ちることが分かる。これはつまり「事実(fact)」であり、なんであれ地面に落ちるということは、真理の一つなのである。
演繹法では、拠り所となる原理から、さまざまな場合が説明されるため、「實知なることなくして唯書籍手寄りの學」に陥る弊があるという指摘を改めて思い起こしましょう。ここで述べられているのは、それとはいわば逆に、たくさんの「事実(fact)」を集めて、そこから「真理」を見いだすという考え方です。ことさらにそういう言葉は使われていませんが、帰納法が「経験」や「実知」を重んじる発想であるということも強調されていると思います。
西先生にとって、帰納法がたいへん重要であることは、これに続く部分で、学術の各種方面の具体例を出しながら検討が続けられることからも窺われます。