「キャラクタ」という概念は、そう捨てたものではない。もちろんキャラクタで日本語社会のすべてを説明することはできないが、基本的なところはおさえることができる。たとえば、キャラクタという概念でとらえられる化粧とは『美人』キャラの「ナチュラルメイク」(第一の理解)であり、これはさまざまな化粧の中で最も基本的なものだ――このような考えをぶち上げたところで前回は紙面が尽きた。今回は、そう考える根拠を述べておきたい。
たとえば、前回ちらりと触れたカツラについて考えてみよう。もちろん、ひとくちにカツラといっても現実は多様で、イギリスの裁判官が法廷でかぶるカツラは日本語社会のものではないから除外するとしても、演劇のカツラ、対戦型ネットゲームの中で登場人物に装着させる攻撃用・防御用のカツラ、さらにペットのカツラなど、さまざまなものがある。だが、カツラを利用する大多数の人々にとって、カツラとはハゲを隠すための道具である。以下ではこの種のカツラにかぎって話を進める。
カツラの価値とは、カツラだと見破られないところにある。もしも装着されたカツラが地毛ではなくカツラだと発覚すればどうなるか。それは、ハゲを隠そうとする装着者の意図が露見することに等しい。どうなるか。こうなるのである。
(1) まあまあ……何とさもしい男じゃろう 若くしてはげることなどちっとも恥ではないのに………熊の毛皮で隠すとは……こやつめ! 見損なったわ もみじとて紅葉すればやがて散る……あるがまま自然のままが一番美しいのにこやつは中味より外見をとりつくろう貴族だわい! [花輪和一「三二九一九六九六(みにくいくろぐろ)」『新今昔物語-鵺-』双葉社, 1982, 181-182.]
(1)に挙げたのは平安時代を舞台とするマンガの一節で、藤原長道という貴族が恋人の家で酔いつぶれて寝てしまったシーンである。額に貼り付けていた熊の毛皮のカツラがはがれてハゲがばれると、長道はハゲを隠そうとする心根を恋人の母に罵られ、頭を蹴られてしまう。
もちろん、カツラをかぶる人の事情はさまざまであって一概に「さもしい」などと片付けられるものではないし、カツラは何ら恥ずかしくないという考えも広く行き渡っているのが今日の現状であろう。しかしその一方で、長道のようにハゲを恥ずかしいと思う感性や、恋人の母のようにハゲ自体よりもハゲ隠しを嫌う感性が現代日本語社会にも確実に存在していることを私たちは知っている。たとえばネット上のQ&Aサイトに、次のような投稿を見ることは珍しいことではない。
(2) 質問(栗きんとんさん, 2010年1月9日5時58分):のっけから恐縮ですが、私はかつらをつけています。[中略] 女性の方々にお聞きしたいです。かつらの男性は嫌ですか? かつらを取った男性をどう思いますか? 回答(ねむりこねこさん, 2010年1月9日11時30分):ハゲていても気にしませんが、それをコンプレックスとして、隠そう隠そうとする男性は嫌です。 [//komachi.yomiuri.co.jp/t/2010/0109/286667.htm, 最終確認日: 2012年2月12日]
つまり私が言いたいのは、「より美しく身を飾ろうとするすべ」といっても、化粧とカツラには大きな違いがあるということだ。前回述べたように、化粧には、素顔に見せかけるナチュラルメイク(第一の理解)があるだけでなく、あからさまな化粧もある。これは言い換えれば、「身を飾ろうとする意図が露見してはいけないもの」だけでなく「身を飾ろうとする意図が露見して構わない(実際に露見している)もの」もあるということである。だがカツラはただひたすらに「身を飾ろうとする意図が露見してはいけないもの」であって、意図が露見すると、上で見たように台無しになってしまう。化粧とカツラに共有されているのは「身を飾ろうとする意図が露見してはいけないもの」であるから、これが「より美しく身を飾ろうとするすべ」の基本だと考えていいだろう。
カツラとの対照に頼らず、化粧だけに視野をかぎってもやはり、「身を飾ろうとする意図が露見してはいけないもの」が基本だということは見てとれる。
たとえば「お綺麗ですね」と容姿を褒められたらどう答えるか。「そうでしょ」と答える人はまずいない。「いえいえ」「とんでもない」「何を仰いますやら」と否定する、「えーっ」「そうですかぁ」などとトボけてみせるというあたりが常道のようだが、ミス何とかに輝いて取材を受けるといった場合はそうもできず、過分なおことばをいただき恐縮という目をして「ありがとうございます」と答えたりするようだ。これらの返答はそれぞれに興味深いが、ここで注目したいのは「盛ってますから」という、ちょっとひねった答え方で、念のために説明しておくと、綺麗に見えるのはコッテリと盛るほど厚化粧を施しているからで、素顔は大したものではございませんという意味の返答である。
この返答が(もちろん言い方にもよるが)謙遜の返答になり得るのは、あからさまな化粧をしていればこそである。カツラではこうはいかない。「いつまでもお若くいらっしゃって、御髪(おぐし)もつやつやと」と言われて「カツラですから」と返したら、相手は思わぬカミングアウトにまずギョッとするだろうし、次に「冗談、ですよね?」とこわばった笑顔を振り向けてくるだろうが、謙遜の発言とはとらないだろう。
「盛ってますから」が謙遜になるのは、私は化粧していますと告白するからではない。化粧をしているのは相手も知っていることとした上で、私の化粧は厚いというから謙遜になる。「あなたは私の化粧顔を見て、『化粧顔がこれだけ綺麗なんだから、素顔から綺麗なんだろう』と推論したようだが、私の化粧はあなたの想像以上に濃いのだ」ということである。
そして「化粧顔がこれだけ綺麗なんだから、素顔から綺麗なんだろう」と人に推論させる化粧が、素顔を偽ろうとするものでなくて何であろうか。あからさまな化粧も本質的な部分は、素顔を偽ろうとするナチュラルメイク(第一の理解)と変わらない。ナチュラルメイク(第一の理解)を化粧法の基本と考えるのは、こういうわけである。