日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第10回 「ワザ。ワザ」について

筆者:
2012年6月10日

我が身を取り繕おうとする意図の露出ということについて、ここまで述べてきたことをまとめ、補足しておこう。

太宰治の『人間失格』には、わざと失敗して皆の笑いを買い、『ひょうきん者』(お道化)を演じていた主人公が、背後から級友に「ワザ。ワザ」とささやかれて震え上がる場面がある。次の(1)を見られたい。

(1)   もはや、自分の正体を完全に隠蔽(いんぺい)し得たのではあるまいか、とほっとしかけた矢先に、自分は実に意外にも背後から突き刺されました。 [中略] その日、体育の時間に、その生徒(姓はいま記憶していませんが、名は竹一といったかと覚えています)その竹一は、れいに依って見学、自分たちは鉄棒の練習をさせられていました。自分は、わざとできるだけ厳粛な顔をして、鉄棒めがけて、えいっと叫んで飛び、そのまま幅跳びのように前方へ飛んでしまって、砂地にドスンと尻餅(しりもち)をつきました。すべて、計画的な失敗でした。果して皆の大笑いになり、自分も苦笑しながら起き上がってズボンの砂を払っていると、いつそこへ来ていたのか、竹一が自分の背中をつつき、低い声でこう囁(ささや)きました。
「ワザ。ワザ」
自分は震撼(しんかん)しました。ワザと失敗したという事を、人もあろうに、竹一に見破られるとは全く思いも掛けない事でした。自分は、世界が一瞬にして地獄の業火(ごうか)に包まれて燃え上るのを眼前に見るような心地がして、わあっ! と叫んで発狂しそうな気配を必死の力で抑えました。

[太宰治『人間失格』1948.]

おまえの尻餅はわざとだろう、知ってるぞと言われて、「なんだ、バレたか」と軽く受け流すことができないのは、この尻餅が一時のウケを狙った単なる座興ではなく、自分の人物像を取り繕おうとしてのものだからである。いくら『ひょうきん者』らしく振る舞い、『ひょうきん者』らしい失敗を重ねても、「『ひょうきん者』と思ってもらおう」という意図が露呈してしまえば終わりである。これまで繰り返し述べてきたように、人物像は意図とはなじまない。これが基本である。

とはいえ、意図があるのかないのかは微妙な部分がある。次の(2)のように、本人にさえ判然としないということも、もちろんあるだろう。

(2)  「途々(みちみち)、当今の英雄についてだいぶしゃべってきたが、予にはまだ書生論を闘わした時代の書生気分が抜けていないのか、談論風発(だんろんふうはつ)は甚だ好むところだ。きょうはひとつ、大いに語ろう」
 彼は胸襟をひらいて、赤裸の自己を見せるつもりでいう。
 いかにも自然児らしく、今なお洛陽の一寒生らしくも見える。
 だが、そのどこまでが、ほんとうの曹操か。 [中略] なぜならば、彼が現わしてみせる感情にも、快活な放言にも、書生肌な胸襟の開放にも、なかなか技巧や機知が働いているからである。むしろそれは自分からくだけて相手を油断させる策とも見えないことはない。ただ曹操の場合は本来の性質でするそれと、機智技巧でするそれとを、自分でも意識しないでやっているところがある。だから彼自身は、決してふたつのものを、挙止言動に、いちいちつかい分けているなどとは思っていないかもしれない。

[吉川英治『三国志』(三)講談社版, 1979.]

さらに、古色付け(補遺第5回)などの例を挙げて述べてきたように、そういう意図の露出が許されてしまうということも実はあるわけだ。この場合、意図の露出に対して、共同体全体で鈍感になっているので、その共同体の中に暮らしていると何とも思わない。別の共同体からの視点をたよりに考えてみて、初めてハッと気づくという場合はこれにあたる。

たとえば、写真である。写真を撮られる際、中国人は実にわざとらしく、これ見よがしなポーズをとる。公園で若い恋人たちを見かけることは日本でも中国でも珍しくないが、中国の女性は彼氏に写真を撮ってもらうとなると、芝生の上に横向きに座って、むこう側の足は伸ばし、手前の足だけ膝を立て、膝の上に両手など置き、彼氏の方に首だけ向けて嫣然とほほえみかけたりする。完全にモデルのポーズである。

「そんなわざとらしいポーズが、よくできますね」と言うと、「日本人の方がわざとらしい」と反論された。「日本人は、写真を撮られるとわかっていながら、まるでわかっていないかのような、いかにも自然なポーズを取り繕う。わざとらしい」と言う。うーん、確かに。確かに、考えてみれば、盗撮でないかぎりわかってるはずだよなあ。

考えてみれば、太宰先生が頬杖ついてシサクされてる写真とか、芥川先生がアゴに手をやって右手前方に鋭いマナザシを向けてらっしゃる写真とか、興ざめな話だけど、あれ全部、自然なようでいて、実は「撮られてる」ってわかってのポーズなんだよなあ。ポーズをとってる太宰先生や芥川先生に後ろから「ワザ。ワザ」ってささやいたら、日本の文学界は世界に誇る2人の天才を「さらに」早く失うところだったかもしれないなあ。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。