日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第9回 ミル貝のでろーん現象について

筆者:
2012年5月27日

意図の露出が厭われる場合が基本とはいえ、そうでもない場合もあるということを、手を変え品を変えして述べてきた。では、意図の露出が厭われる場合と、そうでもない場合の関係はどうなっているのだろうか? 後者は前者とはまったくかけ離れた、別世界の場合なのだろうか?

私はそうは考えていない。相異なる力がぶつかり合い、せめぎ合った結果、さまざまなところで力の拮抗状態が生じ、バランスがとられる、そのバランスのとられ方が一通りでないのだと考えている。

この考えをわかりやすく具体的に示すために、ミル貝のたとえを出したい。

ミル貝というのは正式名称はミルクイ(海松喰)と言い、寿司ネタにもなっているから、寿司屋のショーケースの中にいるのをご覧になった方も多いだろう。写真のように、太く長い水管が貝殻から、でろーんと露出している貝である。

死んでしまったから水管が出ているのではない。水管は、我が身を守るはずの貝殻から、常時、でろーんと露出しているのである。なにしろこのとおり、とうてい貝殻に収まりきらないサイズになっているのだから。

驚かれた方も多いに違いない。私自身もこのことを知った時、世の中こんなだらしない奴がいてよいものかと、さすがに驚いた。脳裏には「危機意識の欠如」「防御本能の喪失」「平和ボケ」、さらには「野放図」「モロ出し」「倫理崩壊」「頽廃」「ふしだら」「ええじゃないか」といったフレーズまでが浮かんでは消えた。「バカ貝科」という所属も、さもありなんと思われた。(といっても、「バカ貝科」にはもっとまともな奴もいることが後でわかったが。)

だが、私がいかにあきれ蔑み嫌悪しようとも、ミル貝はこの世にちゃんと生きているというのが現実である。では、この現実をいかに受け入れ理解するべきか? 以下、生物学の門外漢による空想である。

ミル貝は、「外敵に喰われないよう、我が身を守らねば」という外的な圧力と、「ノビノビした~い」という内的な欲求の間で、貝類が取るバランスが、決して一通りではないということを示してくれている。

多くの貝は、緊急時に閉じこもるための硬い貝殻を発達させ、「ノビノビした~い」という内的な欲求はけっこう犠牲にして生きている。それは一つのバランスの取り方である。

ところが、ミル貝は何かの拍子に、別の進化の道をたどることになったのだ。それは、内的な欲求がもう少しだけ優先されて、水管を貝殻に隠さず、常時ノビノビと露出させる道である。もちろん、ミル貝だって外敵は恐いので、それなりに防御法を発達させてはいるし、それで絶滅もせずに生きている。これも一つの立派なバランスの取り方である。

水管を露出させてはばからないミル貝流のバランスの取り方もあれば、水管は隠して当然という他の貝流のバランスの取り方もある。2つはまったくかけ離れたものではない。どちらも、外的圧力と内的欲求のバランスの取り方である。

水管とはもちろん、我が身を飾り、取り繕おうとする意図のたとえである。大学院に受け入れてくれないかと教員に打診をする際に「先生、私は一流大学を優秀な成績で卒業しました」と平気でメールに書いてくる人たちの社会、立て板に水を流すように流ちょうによどみなくしゃべるのがかっこいいのであって、自分もそういうしゃべり方をしてどうです私はこんなに優秀ですよとアピールしようとする人たちの社会もある。その一方で、そういうメールは絶対に出せず、出身校を訊かれて「一応、東大です」と、それなりに気を遣って「一応」と付けたつもりがかえって自慢だと叩かれてしまう社会、口ベタな人に好感が集まる社会もある。そこだけを見るとお互いにまったく異質な社会にも見えるが、バランスの取られ方が違うだけである。

また別のたとえを挙げる。私は趣味でスキューバ・ダイビングをすることがある。陸から海に潜っていく時、なだらかな傾斜が続いてそのまま海底に至るかというと、たいていそうではない。遠浅の海底が唐突に終わってぐっと急な傾斜(ドロップオフ)、そして平地、また急な傾斜があって平地という具合に、階段状になっている。ある海岸から潜れば、海底までたどり着くのに3段ある。が、別の海岸から潜れば海底まで2段しかない。岩の重力と、水流が岩を押し削る力と、他にどういう力が働くのか、私は流体力学なんかも門外漢なのでわからないが、さまざまな力の相互作用の結果、複数の階段でバランスが取られている。力のバランスを3段で取っている海岸もあれば、2段で取っている海岸もある。

私たちの言語社会に起きていることは、たとえてみればこのようなことではないだろうか。かたや、「このようにしゃべれ、振る舞え」という外的な圧力がある。かたや、「このようにしゃべりたい、振る舞いたい」という内的な欲求がある。両者がぶつかってバランスが取れる。海岸によっては、スタイル、人格という2段の間にキャラクタという1段を設けて、合計3段でバランスが取られるかもしれない。バランスが取られると言っても、次の(1)のように、状況の中でいつの間にかそうなっているだけで、それで個々人が満足というわけでは必ずしもない。

(1)  こないだの温泉同好会ではかなりひかえた
12歳も年下の男子を引き連れて温泉行くなんて犯罪だわ~と思っていたから。
でもでも、なぜか「姉御キャラ」になっていく私
これが諸悪の根源ですよ [中略]
別に奥ゆかしくもないし、静かでもないけど
私は姉御でもなけりゃあ、肉食系女子でもないんです

[//ameblo.jp/kschaitian/entry-11170734947.html, 最終確認日: 2012年5月3日]

海岸によってはキャラクタの階段ははっきりせず、スタイルと人格という2段しかない。キャラクタという階段がない分、スタイルの階段が大きくせり出し、多くの力を受け止めている。そこでは身を飾ろうとする意図は露出していて構わない。この海岸にはミル貝が多く棲息し、皆、あられもない水管をでろーんとさらけ出して生きている。但し、これは状況の中でいつの間にかそうなっているだけで、一匹一匹のミル貝がそれで幸せというわけでは必ずしもない。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。