小説の翻訳者松岡佑子のとった方法は,映画の字幕翻訳者のそれとは少し異なります。たとえば,これまでにも取り上げた三つの呪文(Petrificus Totalus/ Expecto Patronum/ Experiarmus)は,以下のように訳出されています。
(23) a. ペトリフィカス トタルス! 石になれ! b. エクスペクト パトローナム! 守護霊よ来たれ! c. エクスペリアームス! 武器よ去れ!
小説の日本語訳では,このような訳出法が一貫してとられています。まず,片仮名表記によって呪文の音声的特徴を伝え,そしてその呪文の意味を提示する,というものです。呪文の意味は命令形で示され,可能な場合は「守護霊よ来たれ」のように古めかしい表現が使われます。また,戦闘や練習で呪文が飛び交うような場面では,「ペトリフィカス トタルス!」「石になれ!」というように,前半部と後半部がそれぞれ単体で用いられることもありますが,たいていは片仮名表記+意訳の形態に統一されています。
ところで,呪文のこのパタン,どこかで見たことはありませんか。そうです, 普及型呪文と形式的によく似ています。
(24) a. アブラカダブラ,締め切りよ伸びよ b. テクマクマヤコン,テクマクマヤコン,AKB48になーれ
「呪術的前付け」が片仮名で提示され,それに続く「効能説明」がどのような魔法が行われたのか明かす,という普及型呪文のパタンと,よく似たかたちをしています。異なるのは,呪術的前付けの部分が呪文ごとに変わる点です。
翻訳者はなぜ,このようなパタンを採用したのでしょうか。
この方法は,提示する情報量の点では(22)のルビ打ちの方法とほぼ同じですが,(23)の小説訳では,(22)のルビに当たる部分(例:「エクスペリアームス」)が前に来て,その後を呪文の意味(例:「武器よ去れ」)が追いかけます。そのうえで,(23c)に見られるように,「守護霊」「武器」など少しむずかしめの語にはルビを打っています。つまり,年少の読者に対する配慮がより細やかになされているのです。
ところが,(22)の字幕翻訳ではそのような配慮は不可能です。「武器よ去れ」には,「エクスペリアームス」というルビがすでに打たれているからです。したがって,(22)の字幕翻訳を読む観客は,「守護霊」や「武器」などの漢字を自力で読み進めねばなりません。つまり,(22)の字幕翻訳は,小説よりも対象年齢が高いのです。より年少の観客は字幕ではなく吹き替えで映画を観るので,それで問題ありません。
要するに,映画の字幕翻訳と小説の翻訳では,想定された受信者の対象年齢に開きがあり,小説のほうが対象年齢を低めに見積もっています。そして小説では,真性型の呪文を翻訳するにあたり,年少の読者におなじみのフォーマット――普及型呪文の「呪的前付け」+「効能説明」のパタン――に重ねることで呪文らしさを添えたわけです。
これはこれでとてもおもしろいやり方だと思います。ただ,翻訳者には折り込みずみのことだとは思いますが,オリジナルの真性型呪文を普及型呪文に変えた点で,原作よりも子供っぽさが目立つ結果となりました。
『ハリー・ポッター』シリーズの呪文翻訳の背景には,このような必然的な理由が隠されているようです。ことば遊びのニュアンスを翻訳に残すことには無理があるので,できるだけ分かりやすい翻訳を心がける。その過程で翻訳者は受信者の年齢層を考慮しながらも,それぞれの媒体に応じた翻訳を行う。その結果が,2種類の字幕翻訳と小説の翻訳に異なったかたちをとって現れた。そういうことだと思います。
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(*) 編集部注=このページをご覧になる環境によって、ルビが該当文字の上に表示される場合と、( )に括った状態で表示される場合があります。実際の字幕では、文字の上に表示されています。