「くちばしが黄色い」という表現がある。『日本国語大辞典』には次のようにある。以下では使用例の一部を省いて示すことがある。
くちばしが黄色い(鳥類のひなはくちばしが黄色いことから)年が若くて経験が浅い。年若い人や未熟な人などをあざけっていう語。子どもっぽい。乳くさい。口脇黄ばむ。くちばしが青い。*浄瑠璃・傾城反魂香〔1708頃〕上「口ばしのきな小すずめが、家老なみにつらなり」(略)
上では「浄瑠璃・傾城反魂香〔1708頃〕」における使用例が示されているが、「きな小すずめ」の「きな」は「黄な」で、〈黄色な〉ということだ。現在使っている「キナコ」という語は「黄な粉」で、この語には「キナ(黄な)」がいわば「埋め込まれている」。それはそれとするが、十八世紀にはすでに〈未熟なこと〉を、嘴が黄色いということで比喩的にあらわす表現があったことがわかる。
さて、中国にも「コウコウ(黄口)」という語がある。やはり『日本国語大辞典』の見出しをあげておこう。
こうこう【黄口】[名](1)雛鳥(ひなどり)の嘴(くちばし)が黄色いこと。また、その雛鳥。*性霊集‐四〔835頃〕為藤大夫啓「至レ如二冒レ雨渉レ泥、藜杖為レ馬、戴レ星帰レ舎、蔬湌支一レ命、充レ庭黄口、无レ粒二啄一拾」(略)(2)幼いこと。年若く思慮経験の浅いこと。また、その者をあざけっていう語。幼児。未熟者。黄吻(こうふん)。*譬喩尽〔1786〕四「黄口(クハウコウ)之嬰児」(略)*布令字弁〔1868~72〕〈知足蹄原子〉四「黄口 クヮウコウ コドモ」(略)*淮南子‐氾論訓「古之伐レ国、不レ殺二黄口一、不レ獲二二毛一」
使用例の最後に『淮南子』があげられている。『淮南子』に使われている語なので、「こうこう(黄口)」は古典中国語といってよいだろう。『日本国語大辞典』はこの語の語義を(1)(2)と二つに分けて記述している。(1)の「雛鳥の嘴が黄色いこと」という語義の使用例として空海の漢詩文集である『性霊集』での使用例があげられている。そして「幼いこと。年若く思慮経験の浅いこと」という語義の使用例としてまずあげられているのは十八世紀に成った『譬喩尽』である。このあたりは難しい。何が難しいかといえば、「こうこう(黄口)」という語が(2)の語義で使われたのは、18世紀になってからとみてよいのか、どうかということだ。そもそも(1)と(2)との語義は、『日本国語大辞典』の記述をみる限りは異なる。しかしたとえば「あいつはひよっこだ」と言った時に、一般的にはこの「ひよっこ」は〈未熟なこと〉を表現していると感じられる。つまり、未熟である雛鳥の嘴が黄色い以上、「嘴が黄色い」という表現には、〈未熟なこと〉が含意される可能性が高い。
また、さらに考えておかなければいけないことがある。どの地域の鳥であっても、ひな鳥のくちばしが黄色であることは多そうだ。もしもそうだとすると、子供っぽいことをあらわす表現として、「くちばしが黄色い」という比喩的な表現がどの地域、どの言語でも(相互にかかわりなく)うまれる可能性はあると思っておかなければならない。
ところで、筆者が所持している辞書的なテキストに『黄口雑字』と名づけられているものがある。この「黄口」は〈初学者〉ぐらいの意味合いで、初学者向けの辞書という控えめな書名が『黄口雑字』なのだろう。
ところが「事態」は複雑になっていく。先の見出し「くちばしが黄色い」の語釈末尾に「くちばしが青い」とあることにお気づきだっただろうか。『日本国語大辞典』には「あおい嘴」という見出しがある。
あおい嘴(くちばし・はし)まだ幼い状態。転じて、未熟なさまにいう。*洒落本・一事千金〔1778〕序「青き口ばし嗽いなし〈略〉、傾城買の印可をうけなば」*春迺屋漫筆〔1891〕〈坪内逍遙〉梓神子・九「上野の八百が理料(れうり)喰ってオホン思ったほどにもげいせんぱくな皮膚の鑑定此あたり今少しく論じてこまそ黄(アヲ)い嘴(ハシ)むぐつかせずと聴てゐやれさ」
「洒落本・一事千金〔1778〕」の使用例があげられているので、こちらも18世紀には使われていたことがわかる。続く坪内逍遙の使用例はなんと、「黄い嘴」に「アヲ」「ハシ」と振仮名を施し「アヲイハシ」とよませていることがわかる。「よませている」という表現を採ったが、「アヲイハシ」を「黄い嘴」と書いたとみることもできる。どちらかといえばそうだろうと思うが、「アヲイハシ」を「黄い嘴」と書いたのであれば、まずとにかく「青い嘴(アヲイハシ)」という表現が安定していなければならない。その「安定」は「洒落本・一事千金」に「青き口ばし」とあることをもって、(ほぼ)推測することができる。そうみてよいとすれば、18世紀終わり頃には〈未熟なこと〉をあらわす「青き嘴」という表現が使われていた。坪内逍遙はそれを使って文をつくったが、漢字をあてるにあたって、「ひとひねり」して、漢語「黄口」あるいは(これもすでにあった)「くちばしが黄色い」という表現を重ね合わせて、「青い嘴」なのに「黄い嘴」とわざわざ書いて振仮名を施した。この場合は、「青なのに黄」であるところに「工夫」があることがはっきりとしており、書き手の「工夫」がきわだつ。坪内逍遙は「どや顔」をしていたかもしれない。それとも、このくらいのことは「朝飯前」と涼しい顔をしていただろうか。
〈未熟〉を「アオイ」と表現することについて、『日本国語大辞典』は見出し「あおい」の語義(3)で「(未熟な果実などは青色をしているところから)人格、技能、学問などが未熟である。また、遊芸の道でやぼである」と説明している。使用例として最初に「*日葡辞書〔1603~04〕「Auoi (アヲイ) コトヲ ユウ〈訳〉重要性の少ないことや経験の少ないことを言う」」があげられており、それに「*浮世草子・傾城禁短気〔1711〕五・一「お前のやうな睟(すい)さまを、わしがやうな青(アヲ)い者が」が続いている。こちらの使用例にも坪内逍遙の「*桐一葉〔1894~95〕三・一「嘴(くちばし)黄(アヲ)い我々共が生れぬ先きの功名とて」」があげられている。ここでも逍遙は「黄い」に「アヲ」という振仮名を施している。見出し「あお」の「語誌」欄には次のように記されている。
アカ・クロ・シロと並び、日本語の基本的な色彩語であり、上代から色名として用いられた。アヲの示す色相は広く、青・緑・紫、さらに黒・白・灰色も含んだ。古くは、シロ(顕)アヲ(漠)と対立し、ほのかな光の感覚を示し、「白雲・青雲」の対など無彩色(灰色)を表現するのは、そのためである。また、アカ(熟)←→アヲ(未熟)と対立し、未成熟状態を示す。名詞の上に付けて未熟・幼少を示すことがあるのは、若葉などの「色」を指すことからの転義ではなく、その状態自体をアヲで表現したものとも考えられる。
右によると「未熟な果実など」からの表現ではないことになる。なかなか奥が深い。