日本語社会 のぞきキャラくり

補遺第93回 アイデンティティについて

筆者:
2015年8月30日

ここ一週間ほど,ブラジルのサンパウロ大学で日本語に関する学会に参加していた。講演者としてご招待いただいたのだが,そこでは日本語の継承に関する講演や発表を多く聞いた。

北米では,日系一世から二世,そして三世と世代が進むと日本語はほぼ失われてしまうが,ブラジルでは日本語の継承が盛んで,二世や三世の中にも日本語が比較的頑健に残っているという(坂本光代氏)。また,隣国ペルーにも,進んで日本語を学び話そうとする日系人がいるらしい(阪上彩子氏)。こうした日本語の継承は,「自分とは何者なのか」という意識と強く関わっているようだった。

このような内容を反映して,学会では「アイデンティティ」という語を何度も耳にした。タイトルに「アイデンティティ」を含む発表もいくつかあった。もちろん,「アイデンティティ」なんてもはや死語じゃないのという意見も会場では聞いたし,アイデンティティの確立よりもキャラ(フィクションとして演じられる役柄)の使い分けが大事な時代なのではという話も私は承知している(岡本裕一朗『12歳からの現代思想』筑摩書房,2010,補遺第89回)。だがそれでも,異なる言語文化圏のはざまに生まれた人間が,自らの帰属先を気にせず無頓着でいられるわけでは必ずしもなく,むしろそれをことさら気にして追い求める(追い求めざるを得ない)場合もあるということを,(司馬遼太郎『八咫烏(やたのからす)』のようなフィクションとしてではなく)現実のものとして,少しでも具体的に知ることができたのは私にとって収穫だった。

キャラクタを論じるにあたって,これまで私は「アイデンティティ」ということばを原則として封印してきた。例外は,「キャラクタ」と類似するが異なる概念として,「社会的アイデンティティ」に触れたことぐらいである(本編第37回)。なぜこのような素っ気ない態度をとってきたのかと言えば,「アイデンティティ」ということばを持ち出すことで事態がすっきりと見えてくるわけでは全くなく,「アイデンティティ」という概念の本質的なとらえどころのなさゆえに,かえって話が混沌としてしまうと思われたからである。この考えはいまも変わっていない。だが,もし仮に「アイデンティティ」という概念をおそるおそる導入するなら,私の「キャラクタ」論は,現実世界における人物のアイデンティティ論の一部におさまると言えるだろう。

ここで話は唐突に伊藤剛氏の「キャラ(Kyara)」論に戻る。マンガを理解するには「コマAで描かれているこの登場人物と,コマBで描かれているこの登場人物は同一の人物だ」といった認識が必要である。この認識を追求された伊藤氏の「キャラ(Kyara)」は,マンガ世界における人物のアイデンティティ論の基礎概念と位置づけることができる。 私の「キャラクタ」と伊藤氏の「キャラ(Kyara)」は別物だが,人物のアイデンティティに関わるという一点において両者は通底している。

筆者プロフィール

定延 利之 ( さだのぶ・としゆき)

神戸大学大学院国際文化学研究科教授。博士(文学)。
専攻は言語学・コミュニケーション論。「人物像に応じた音声文法」の研究や「日本語・英語・中国語の対照に基づく、日本語の音声言語の教育に役立つ基礎資料の作成」などを行う。
著書に『認知言語論』(大修館書店、2000)、『ささやく恋人、りきむレポーター――口の中の文化』(岩波書店、2005)、『日本語不思議図鑑』(大修館書店、2006)、『煩悩の文法――体験を語りたがる人びとの欲望が日本語の文法システムをゆさぶる話』(ちくま新書、2008)などがある。
URL://ccs.cla.kobe-u.ac.jp/Gengo/staff/sadanobu/index.htm

最新刊『煩悩の文法』(ちくま新書)

編集部から

「いつもより声高いし。なんかいちいち間とるし。おまえそんな話し方だった?」
「だって仕事とはキャラ使い分けてるもん」
キャラ。最近キーワードになりつつあります。
でもそもそもキャラって? しかも話し方でつくられるキャラって??
日本語社会にあらわれる様々な言語現象を分析し、先鋭的な研究をすすめている定延利之先生の「日本語社会 のぞきキャラくり」。毎週日曜日に掲載しております。