ここ一週間ほど,ブラジルのサンパウロ大学で日本語に関する学会に参加していた。講演者としてご招待いただいたのだが,そこでは日本語の継承に関する講演や発表を多く聞いた。
北米では,日系一世から二世,そして三世と世代が進むと日本語はほぼ失われてしまうが,ブラジルでは日本語の継承が盛んで,二世や三世の中にも日本語が比較的頑健に残っているという(坂本光代氏)。また,隣国ペルーにも,進んで日本語を学び話そうとする日系人がいるらしい(阪上彩子氏)。こうした日本語の継承は,「自分とは何者なのか」という意識と強く関わっているようだった。
このような内容を反映して,学会では「アイデンティティ」という語を何度も耳にした。タイトルに「アイデンティティ」を含む発表もいくつかあった。もちろん,「アイデンティティ」なんてもはや死語じゃないのという意見も会場では聞いたし,アイデンティティの確立よりもキャラ(フィクションとして演じられる役柄)の使い分けが大事な時代なのではという話も私は承知している(岡本裕一朗『12歳からの現代思想』筑摩書房,2010,補遺第89回)。だがそれでも,異なる言語文化圏のはざまに生まれた人間が,自らの帰属先を気にせず無頓着でいられるわけでは必ずしもなく,むしろそれをことさら気にして追い求める(追い求めざるを得ない)場合もあるということを,(司馬遼太郎『八咫烏(やたのからす)』のようなフィクションとしてではなく)現実のものとして,少しでも具体的に知ることができたのは私にとって収穫だった。
キャラクタを論じるにあたって,これまで私は「アイデンティティ」ということばを原則として封印してきた。例外は,「キャラクタ」と類似するが異なる概念として,「社会的アイデンティティ」に触れたことぐらいである(本編第37回)。なぜこのような素っ気ない態度をとってきたのかと言えば,「アイデンティティ」ということばを持ち出すことで事態がすっきりと見えてくるわけでは全くなく,「アイデンティティ」という概念の本質的なとらえどころのなさゆえに,かえって話が混沌としてしまうと思われたからである。この考えはいまも変わっていない。だが,もし仮に「アイデンティティ」という概念をおそるおそる導入するなら,私の「キャラクタ」論は,現実世界における人物のアイデンティティ論の一部におさまると言えるだろう。
ここで話は唐突に伊藤剛氏の「キャラ(Kyara)」論に戻る。マンガを理解するには「コマAで描かれているこの登場人物と,コマBで描かれているこの登場人物は同一の人物だ」といった認識が必要である。この認識を追求された伊藤氏の「キャラ(Kyara)」は,マンガ世界における人物のアイデンティティ論の基礎概念と位置づけることができる。 私の「キャラクタ」と伊藤氏の「キャラ(Kyara)」は別物だが,人物のアイデンティティに関わるという一点において両者は通底している。