スロベニアの英文オンラインジャーナルACTA LINGUISTICA ASIATICAのキャラ特集号では(前回),役割語研究の金水敏氏をはじめ,さまざまな方に執筆をお願いしている。執筆陣の中に,言語学系の読者にとって馴染みがない異色の存在があるとすれば,それは瀬沼文彰(せぬま・ふみあき)氏だろう。
瀬沼氏は『キャラ論』(STUDIO CELLO,2007年)やその改訂版『なぜ若い世代は「キャラ」化するのか』(春日文庫,2009年)の著者である。吉本興業でお笑い芸人として活動された経歴を持ち,笑いの観点から若者のコミュニケーションを観察しつつ,キャラを社会学的な方面から追求されている。多くの論者が「若者はグループ内で自分のキャラが他人のキャラとかぶることを忌避する」と異口同音に述べる中で,瀬沼氏は若者を対象とした自身のアンケート調査で「キャラのかぶりは気にならない」という回答が過半数を占めたことなどをまず直視され,独自の考察を展開されている。私が氏に特に興味を持ったのは,こういうわけである。
2014年6月15日(日),私は瀬沼氏と都内の或る会議室で,こっそりと対談の場をもった。前宣伝は一切なし。オーディエンスはごく身内の10人足らず。なぜこっそりか? だって,もし2人の話が全然かみ合わなかったら,はずかしいではないか。
伊藤剛氏が「「キャラ」と「キャラクタ」を分ける」と宣言されて以来(『テヅカ・イズ・デッド:ひらかれたマンガ表現論へ』NTT出版,2005年),世にどっとあふれ出たさまざまな「キャラ論」から,私が完全に出遅れていたとは思わない。私が関西言語学会第29回大会でワークショップ「発話キャラクタと会話音声」を企画・実施したのが2004年のことであり(2004年10月30日,於京都外国語大学),2005年には拙著で(『ささやく恋人,りきむレポーター:口の中の文化』,岩波書店),2006年には拙論(「ことばと発話キャラクタ」『文学』7-6,117-129,岩波書店)で,キャラクタに関する自分の論考を部分的ながらまとめてもいる。
だが,なにしろフィールドが違いすぎた。マンガ論・ポストモダン社会論・若者コミュニケーション論・精神分析・商品開発論などに携わっているキャラ論者たちは当然ながら私の研究を参照などしてくれないし,私の方もコミュニケーション論・言語論にキャラ(クタ)概念を導入するのに忙しく,それらのキャラ論に言及する余裕はとてもなかった。自身の考えを100回の連載を通じて著書にまとめ(『日本語社会 のぞきキャラくり:顔つき・カラダつき・ことばつき』三省堂,2011年),補遺の連載が60回を越えたあたりでようやく,より広い領域に向けて一歩前進する余裕が出てきた。そこで「瀬沼さんとならフィールドが近そうで、お話しできるのでは?」と思って、対談を申し込んだ次第である。
もしも瀬沼氏が「なに,ワシの『キャラ論』をはじめ、先行するキャラ論に何ら言及しとらんとは,けしからーん!」と激昂されたり,あるいは社会学的には意味を持つものの,私にはさっぱり意味不明の言説をまくし立てられたりしたらどうしようと心配していたが,この心配は杞憂に終わった。瀬沼氏は私の考えを実に柔軟に,しかも鋭く受け入れてくださり,私も氏の考えをより深く学ぶことができた。何よりも,私のような言語・コミュニケーション論的研究と瀬沼氏のような社会学的研究はつながり得るものだという感触を得られたのが大きかった。
というわけで,キャラ特集号では瀬沼氏にも執筆をお願いしている。