死の婉曲表現のレパートリーは,すり替えとぼかしが用いられる点では,性と排泄の婉曲表現と同じです。つまり,すり替えとぼかしは,性・死・排泄という婉曲の3大トピックのいずれにおいても生産的に用いられています。
(102) すり替えによる表現 a. 〈時間的に先行する行為〉 息を引き取る,息絶える;眼を瞑(つむ)る b. 〈時間的に後続する行為〉 冷たくなる,骨になる,土になる;空しくなる;鬼籍に入る,亡き数に入る,仏になる
(103) ぼかしによる表現 万一のこと,もしものこと,何かあったら;(御)不幸;事切れる
(102)と(103)についてもはや説明はほとんど不要でしょう。息を引き取って死に至る,死んで土になり,鬼籍に入る。「もしものこと」は数あるはずですが,死にかかわる「もしも」のことだけ取り出します。このように,性と排泄のときと同様に,死に関してもすり替えとぼかしが多用されます。事情が大きく異なるのは,見立ての使用に関してです。
(104) 見立てによる表現 a. あの世に行く,他界する,往生する,幽明境を異にする,世を去る,辞世,死出の旅に出る,不帰の客となる b. 冷たくなる,骨になる,土になる;空しくなる;鬼籍に入る,亡き数に入る,仏になる c. お隠れ,巨星落つ,没する,死没 d. (安らかに)眠る,永眠する
死を移動に見立てる表現はたくさんあります。(104a)の「逝く」も「罷る」も,もともと移動を表します。移動の起点と終点を明示しない表現は,ぼかしの効果も含みます。どのような移動であるかについてはつまびらかにしないからです。
一方,(104b)におけるように移動先をあの世,出立する場所をこの世と明示的にとらえると,「あの世に行く」「他界する」といった表現になります。「往生する」も,現世を去り浄土で生まれ変わることを表します。
(104c)は,死を天体の運行などの自然現象に喩えます。月が雲間に隠れたり,日が水平線に没したりすると,見えなくなります。生きて目の前で活動していたときからの変化を見える状態から見えなくなった状態への以降ととらえる訳です。その点では,移動の見立てと似ています。
そして(104d)は,死を覚めることのない眠りに喩えます。墓碑銘に刻まれる「ここに眠る」という表現は,この眠りの見立てを用いています。移動の見立ても天体現象の喩えも,基本的に動きを表すので,このような場合には使いづらい。墓碑銘では,静止した状態を記述するのがふつうですので,静的な表現は「眠る」ぐらいしかないのです。
さて,死は,性や排泄とは異なり,自分の肉体では経験できない概念です。ですから,人は死を頭で理解するほかありません。そして,死の婉曲に用いられる移動や天体の見立ては,婉曲という目的だけでなく,死を理解し表現するのにも役立ちます。
生から死へという状態の変化をこの世界から別の世界への移動に置き換えてみる。すると,死は移動の結果,自分が認知できる世界からいなくなった状態というかたちで理解することができます。
このような把握の仕方は,私たちの日常に広く見られます。たとえば,携帯が見当たらない。そのとき「あれ,ケータイどっか行った」というふうに言わないでしょうか。自ら移動するはずのない対象が,ひとりでに移動した結果,私たちの認知が及ばないのだと考える。私たちにとってそれはとても自然な事態把握の方法です。
死という体験不可能な事態の把握に見立てを用いる。その際,死が持つ恐ろしいイメージを移動や天体の動きなどに置き換えることができます。そうすることで婉曲も同時に行ってしまうわけです。
基本的に肉体の行為である性や排泄とは,この辺りの事情が大きく異なります。性と排泄に関しては,おそらくは性愛にかかわる心理を理解する以外に,見立てを必要とはしません。だから,性と排泄のトピックに不用意に見立てを持ち込むと,避けたいイメージをかえってまざまざと呼び起こしてしまいます。見立ての使用がトピックに応じて異なるのには,このような理由があります。
ただ,ひとつ補足すべき事項があります。というのも,性と排泄にかかわる婉曲表現においても(これまで取り上げてきた婉曲表現のほとんどとは性格がかなり異なるものの),見立てが積極的に用いられることがあるからです。第72回で挙がっていた「キジ撃ち」は,実はそのような例でした。婉曲表現に関する考察のしめくくりとして,この種の見立ての表現について考えてみましょう。