場面:月の宴
場所:上皇御所の冷泉院
時節:光源氏50歳の中秋十五夜の夜
人物:[ア]御引直衣(おひきのうし)姿の冷泉院、32歳 [イ]冠直衣姿の准太上天皇光源氏 [ウ]冠直衣姿の蛍兵部卿宮 [エ]直衣布袴(のうしほうこ)姿の左大将夕霧か、29歳 [オ]・[カ]直衣布袴姿の公達
室内:①・⑦柱 ②廂 ③釘隠 ④・⑨下長押 ⑤簀子 ⑥高欄 ⑧母屋 ⑩高麗縁の畳⑪上長押 ⑫板敷
室外:Ⓐ月
絵巻の場面 この場面は、前回の「鈴虫(一)」段と同じ八月十五日の夜になりますが、場所は六条院から冷泉院御所に変わっています。冷泉院から月見の宴の誘いがあったので、光源氏は親王や公達を引き連れて御所に参上したのです。この場面には宴飲の様子は描かれず、画面左側で対座する二人と、音楽の遊びをする公達たちを描くことが中心となっています。二人が対座するところは、二千円札の絵柄にとられていますね。このお札はあまり流通していませんが、その方が良いのかもしれません。なぜなら、密通によって生誕した冷泉院と、その実父が対座した場面だからですが、この点は後で触れることにしましょう。
冷泉院はどの人物か それでは描かれた人物を確認してみます。まずこの御所の主人となる冷泉院は、どの人になるでしょうか。答は[ア]の人物になりますが、なぜそう言えるのでしょう。それは衣装で分かります。みな同じような冠直衣姿ですが、[ア]冷泉院だけは指貫(さしぬき)ではなく切袴(きりばかま。裾を括る緒のない袴)で、その裾が後ろに引かれていますね。また直衣は腰で折り上げずに前を合わせただけで、裾が左右に引かれています。これは天皇のみに許される御引直衣と呼ぶ日常着になります。冷泉院であることを示すために、退位していても御引直衣で描いたのだと思われます。
その他の人物 続いて、他の人物になります。冷泉院に対面して、①柱を背にする[イ]の人物は、物語からして光源氏です。また、その左に座す[ウ]は、六条院から同道して来た蛍兵部卿宮でしょう。光源氏と同じ平面の②廂に居ますので、親王なら身分が釣り合います。寝殿造は、座る場所が身分によって階層化されていましたね。
③釘隠の見える④下長押から一段下がった⑤簀子に座る三人が公達です。物語で語られているのは、光源氏と同道した夕霧や、亡き柏木の弟など五人います。誰になるかは分かりませんが、横笛を吹く[エ]の人物だけは夕霧と考えられています。前巻「横笛」で、柏木遺愛の横笛が遺族から夕霧に譲られ、さらに光源氏に渡ったことが語られていたからです。夕霧の横笛吹奏で、この場面に柏木の密通という主題が隠されていると読み解けます。
[カ]の人物は笙を吹いていますが、[オ]の人物のしていることは分かりません。横笛と笙が吹かれて音楽の遊びをしているのですから、この人物も何かをしていましょう。考えられることは、笏(しゃく)を縦に二つに割ったものを打ち合わせて調子をとる笏拍子です。あるいは朗詠かもしれませんが、いずれにしてもこの場面には楽の音が響いているのです。
公達の衣装 演奏する三人の公達の衣装を見てみましょう。すぐに気づくのが、⑥高欄に引きかけている長い衣装ですね。これは第18回で扱いました下襲です。臣下が正装の束帯の下に着る内着で、裾を長く引くのが特徴でした。簀子に座る時は下襲を高欄に引きかけるのが作法でしたね。しかし、公達は冠直衣姿で束帯ではないのに下襲を着用しています。この着用の仕方を直衣布袴姿と呼びました。日常服の直衣でも、下襲を着用すれば、正装の略装と見なされたのです。下襲のことは、物語本文にも語られていました。
『源氏物語』の本文 光源氏一行が御所に参上する際の語りに下襲のことが見えます。
直衣にて軽らかなる御装ひどもなれば、下襲ばかり奉り加へて、月ややさしあがり、更けぬる空おもしろきに、若き人々、笛などわざとなく吹かせたまひなどして、忍びたる御参りのさまなり。(略)ふとかく参りたまへれば、いたう驚き待ち喜びきこえたまふ。ねびととのひたまへる御容貌、いよいよ異ものならず。
【訳】直衣姿で略式の御装いなので、下襲だけをお召し加えて、十五夜月がやや高く上り、夜も更けた空は風情があるので、若い公達に、笛などをさりげなく吹かせなさりなどして、こっそりとしたご参上の様子である。(略)突然にこのように参上なさったので、冷泉院はたいそう驚き喜んでお迎えなさる。お年盛りで立派になられたお顔だちは、ますます光源氏と別人とは見えない。
実は、物語には御所での様子が詳しく語られていません。したがって、物語に見合う描写は絵巻にありません。しかし、絵巻では、この本文を受けて下襲を描いたのでしょう。また、参上する際の「笛など…」とあったのを御所のこととし、さらに冷泉院と光源氏が瓜二つの顔だちとする語りを、対座させて描くことで表現したと思われます。絵巻作者の創意になりますが、『源氏物語』にあってもおかしくはない、すぐれた絵柄となっています。
建物 さらに御所の建物を確認しましょう。御所名も冷泉院と言い、これは実在した建物です。光源氏の兄を朱雀院と呼びますが、これも実在した御所名でした。『源氏物語』は実在した上皇御所名を天皇の名にしているのです。絵巻の場面は、その御所の寝殿でしょう。左上の⑦柱の奥が母屋になりますが、その手前の廂との境になる⑨下長押には段差がありません。内裏の東面する清涼殿の母屋と東廂の間も段差がありませんので、これは、御所建築の特徴なのかもしれません。母屋と廂の段差をなくして御所としているのでしょう。
画面の構図と主題 最後に画面の構図と主題を考えておきましょう。この場面が月見の宴になることは、画面右上に満月の片端を描くことで示しています。写実的な絵では、ここに月を描きませんが、複数の視点で画面を構成する絵巻ならではの技法になっています。構図としては、右上から左下に斜めの線を幾つも重ねています。⑥高欄、④下長押、⑩高麗縁の畳のへり、⑪上長押などが互いに斜めに平行していて、不安な感じにもなります。
こうした構図の中にしんみりと対座する秘密の親子が置かれています。冷泉院は畳から板敷に身を乗り出して父光源氏に向いています。何かを話しかけているようですね。そこには、実父へのひそやかな思いがあることでしょう。しかし、二人は決して親子であることを表明できません。それは宮廷社会での身の破滅になります。互いに親子と知りつつ、決してそれを表明できない二人がしみじみと対座することで、藤壷と光源氏の密通の罪を暗示しているのです。容貌の似た二人が顔を揃えるのは、罪の発覚につながりかねません。また、夕霧の横笛吹奏でも、柏木と女三宮の密通の罪を潜めていましょう。罪やその発覚の恐れが斜めの構図になっているかもしれません。そして、このことが絵巻の主題になっているのだと思われます。光源氏の物語は「鈴虫」巻で、その終焉を目指していますので、改めて中心的にテーマとなる密通の罪が反芻されています。絵巻はこのことを踏まえて絵柄をこのように工夫したのでしょう。
なお、詳しく触れることはできませんが、『源氏物語』以後に作られた『夜の寝覚』や『狭衣物語』などには、密通によって生誕した子と、父と表明できない親子が、養親・養子になるという、哀切な関係が語られています。こうした物語の流行が、この絵巻の構図と関係している可能性があるように思われます。