場面: 念誦堂の女三宮のもとを光源氏が訪れるところ
場所:六条院春の町の念誦堂
時節:光源氏50歳の中秋十五夜の夕暮
人物:[ア]表着姿の女三宮、24~25歳 [イ]袿に袈裟姿の尼 [ウ]直衣姿の准太上天皇光源氏
室内:①柱 ②・⑯御簾 ③下長押 ④裳 ⑤引腰 ⑥簀子 ⑦袈裟(けさ) ⑧廂 ⑨高麗縁の畳 ⑩巻上げた御簾 ⑪鴨居 ⑫押障子(おししょうじ) ⑬几帳 ⑭上長押 ⑮帽額
室外:Ⓐ透垣(すいがい) Ⓑ羅文(らもん) Ⓒ閼伽棚(あかだな) Ⓓ曲物(まげもの)の閼伽桶 Ⓔ遣水 Ⓕ立石
絵巻の場面 この場面は、出家している女三宮のもとに光源氏が訪れるところを描いています。女三宮が住む六条院春の町西側は、秋の野の風情に改修されて、そこに虫を放していました。これは陰暦八月十五日に寺院などで行われる、仏教で慈悲のために生き物を放つ放生会(ほうじょうえ)という儀式になぞらえています。画面は、この日のこととして、二人の対面直前を描いているのです。
庭を眺める女性は誰か それでは描かれた人物を確認しましょう。現在問題にされているのは、画面左側、①柱の陰に座っている[ア]女性です。かつては、この女性が女三宮とされていました。しかし、近年の光学的研究をもとにした復元模写によって、女房装束の裳を着けていることが判明しました。②御簾の下の③下長押にかかって見える④の記号を付けた部分が裳で、その奥の⑤の所が引腰だと判明したのです。裳であることは動かし難い事実です。このことから、この女性は女三宮ではないとされたのです。裳の着用は女房(侍女)なので女三宮ではないというわけです。そして、この絵に女三宮が不在とされる意味が様々に推測されることとなりました。これが現在の状況です。しかし、裳を着けているから女三宮ではなく女房だと即断していいのでしょうか。ここは、裳を着けているからこそ女三宮だと思われます。
裳唐衣衣装は、主人に仕える女房の装束であることは確かです。しかし、この衣装は何よりも皇后も着用する女性の正装で、着用は相対的なことでした。第8回の『紫式部日記絵巻』「敦成親王五十日の祝」の段を参照してください。孫の敦成親王(あつひらしんのう)を抱く祖母源倫子(みなもとのみちこ。藤原道長の妻)は裳唐衣衣装でした。孫とはいえ天皇の御子ですので、敬意を込めて倫子はこの衣装になったのです。このことを念頭において、女三宮が出家していることを考えてください。出家とは仏に仕えて、その弟子になることです。当時の女性は出家する際に裳と袈裟を用意したのです。したがって、女三宮は出家の身として裳を着用していたと考えられるのです。高貴な身分であっても、仏に帰依(きえ)する身であれば、裳を着用する例もありました。
平清盛が厳島神社に奉納した「平家納経」と呼ばれる経巻が現存していて、その表紙の見返しには濃彩の大和絵などが描かれています。例えば、その一つ「厳王品」(ごんのうほん。法華経の第二七巻)の見返し絵には、尼ではありませんが、裳唐衣衣装の二人の女性が描かれています。この二人は女房ではなく、絵の中では仏に帰依した王の子に見立てられています。この絵などを参照すれば、女三宮が裳を着用していても何の問題もなく、逆に仏への帰依を表現していたと言えるのです。
『源氏物語』の本文 この女性が女三宮であれば、この絵柄は、『源氏物語』の次の本文とほぼ整合します。
十五夜の夕暮に、仏の御前に宮おはして、端近うながめたまひつつ念誦したまふ。若き尼君たち二三人花奉るとて、鳴らす閼伽坏の音、水のけはひなど聞こゆる、さま変りたる営みにそそきあへる、いとあはれなるに、例の渡りたまひて、
【訳】八月十五夜の夕暮に、仏の御前に女三宮がいらして、端近くで庭先をぼんやり眺めなさりつつ念仏を唱えておられる。若い尼君たち二三人が花をお供えしようとして、鳴らす閼伽坏の音や、水を注ぐ様子などが聞こえてくる。これまでと様変わりしたお勤めにせわしそうなのは、とてもしみじみとしており、そこに例によって光源氏がお越しになり、
女三宮は端近くでぼんやり庭先を見ているとされていますが、それは絵にあることと符合します。
ただ若い尼は、絵では[イ]一人だけで、目隠しになるⒶ透垣と飾りのⒷ羅文を描いていますが、その前のⒸ閼伽棚に水を供えているのは本文と同じです。絵には、水を入れるⒹ桶も描かれています。また、[ウ]光源氏がお越しになったことは、画面左下の直衣の一部で表しています。絵は、この本文に沿って描かれていると言えるのです。
尼姿 ⑥簀子に立つ[イ]若い尼は、⑦五条の袈裟をかけ、髪は「尼削ぎ」になっています。しかし、女三宮の髪は長く描かれています。これは、「柏木」巻の次の本文によっています。
御髪は惜しみきこえて長う削ぎたりければ、背後はことにけぢめも見えたまはぬほどなり。
【訳】御髪は惜しみ申して長めに削いでいたので、後ろ姿は出家前と特に違いは見えないくらいである。
まだ若い宮という身空を考えて髪は長めにしていて、後ろ姿は出家前とそれほど変わらないとされています。だから、髪が長く描かれていても女三宮でいいわけです。これが女房だとすると、逆に長い理由が分かりません。女三宮の出家に応じて、何人もの女房が従っていましたので、宮の回りにいる女房は[イ]の尼のように尼削ぎになっていたはずなのです。
なお、⑧廂の⑨高麗縁の畳のもとで女三宮が座っている端近くは、奥ゆかしくない場所になります。しかし、⑩巻き上げた御簾は座高の高さくらいにしています。座して、御簾の高さに気をつかっています。かつて立ち姿を柏木に見られてしまったたしなみのなさは、すでになくなっていることになります。女三宮はそれなりに成長しているのです。
建物 さて、ここの建物は何でしょうか。宮がいる建物は念誦堂になり、寝殿の西隣りにあるようですが、それ以上のことは不明です。また、光源氏が通っている所は、そこにつながる渡殿とされています。しかし、引き違い式障子の⑪鴨居の上部にはめる⑫押障子と、その下の⑬几帳、あるいは⑭上長押の下に⑮帽額・⑯御簾などが描かれていますので、壁渡殿であっても、豪勢でそぐわない感じがします。寝殿か対の屋の廂のようです。これは憶測になりますが、念誦堂の位置や規模がはっきりしないので、画面左下をこのように描いたのかもしれません。
画面に残る墨書き 「鈴虫」段には、墨書きの跡が見えます。Ⓐ透垣が右下方向に長くしようとした線書きが見え、また絵の指示書もあります(いずれも線描画では省略)。透垣は短くされたわけですが、それはⒺ遣水やⒻ立石を描くためだと思われます。絵指示はX線によると16か所あるようですが、現在でも例えば庭先に「には(庭)」「せさい(前栽)」「すゝむし(鈴虫)」などとあるのが読めます。そうしますと、原画には草木や鈴虫(今日の松虫)が描かれていたわけです。女三宮は、その草木を眺め、鈴虫の鳴き声を聞いているのです。
画面の構図 画面は、女三宮の居場所は水平の構図、光源氏は斜線の構図のもとにわずかだけ描かれています。物語本文は、二人が対面して鈴虫を詠み込む贈答歌を配し、光源氏とは距離を置こうとする女三宮、今なお残る光源氏の女三宮に対する未練の様子などを語っています。画面は、光源氏の姿をわずかに描くだけで脇に追いやって、静かに出家生活を続けている女三宮を焦点化しているのだと思われます。