絵巻で見る 平安時代の暮らし

第26回 『源氏物語絵巻』「横笛」段の「赤子の夜泣きをあやす」を読み解く

筆者:
2014年6月28日

場面:赤子の夜泣きをあやすところ
場所:三条邸の「対の屋」か
時節:光源氏49歳の秋の夜更け

人物:[ア]雲居雁(くもいのかり。夕霧の妻。父・頭中将、母は再婚して按察大納言の北の方)、30歳 [イ]大袿姿の夕霧(父・光源氏、母・葵の上)、28歳 [ウ]夕霧の六郎君 [エ]撤米(うちまき)する乳母 [オ][カ]表着に裳姿の侍女

室内:①上長押(かみなげし) ②釘隠 ③帽額(もこう) ④母屋の御簾 ⑤壁代(かべしろ) ⑥壁代の野筋 ⑦丸柱 ⑧立て烏帽子 ⑨下長押(しもなげし) ⑩銀盤の米 ⑪油単(ゆたん) ⑫御殿油(おんとなぶら) ⑬大紋の高麗縁の畳(こうらいべりのたたみ) ⑭・⑮・⑯唐絵(からえ)の障子 ⑰鴨居 ⑱色紙形 ⑲裳

絵巻の場面 ここは夕霧・雲居雁夫妻の三条邸の対の屋ですが、東・西・北のどれになるか不明です。母屋は三間以上見えますので、東か西の対とすれば東西面のいずれか、北の対とすれば南北面のいずれかになります。この場面は、①上長押と⑬畳の高麗縁で縁取った水平の構図に、三本の⑦丸柱を垂直に配して整然とした構図になっています。

それでは、ここには何が描かれているのでしょうか。画面右側の母屋にいる[ア][イ][エ]三人の視線は、お乳をくわえている[ウ]赤子に向けられていますね。画面も、左側には人物を配置せず、右側に絵巻を見る人の視線が行くように仕向けています。ですから、授乳シーンを描こうとしているのは確かでしょう。しかし、授乳は日常的なことで、珍しいわけではありません。とすると、この絵は、授乳シーンだけでなく、それが必要になった事情も暗示しているようです。以下、絵巻を見ながら、この場面の意味を読み解いていきましょう。

絵巻の時間 この場面は一日のうち、いつ頃になるでしょうか。画面中央近くに、⑫「御殿油」[注1]の炎が描かれています。これは、⑪油単(油汚れを防ぐ敷物)に置かれた灯台の火ですので、時間は夜になります。そうしますと、[ウ]赤子が夜泣きをして、母親の[ア]雲居雁が、あやすために乳を含ませたということが分かります。

雲居雁の姿 さらに雲居雁の様子を見ましょう。まず注意したいのが、額髪が邪魔にならないように耳を露出させてはさむ「耳はさみ」をしていることです。これは育児や家事にいそしむ姿です。赤子を抱き、豊かな胸を開いて乳を含ませ、満ち足りたような顔つきでいます。画面は剥落していて分かりにくいですが、雲居雁の右手は、自分の左乳房を支えているようです。指先がかろうじて見えます。

当時の貴族女性は授乳をしなかったとする説がありますが、そうではありません。多産が求められた貴族女性は、授乳するとホルモンの関係で妊娠が難しくなるので、多くは乳母に任せたとするのが正解のようです。場合によっては授乳をしたのです。実は、物語本文で、すでに雲居雁は乳が出なくなっていたと語られています。ここは出ない乳を含ませて子育てにいそしむ、当時としては中年の「主婦」の情景が描かれていることになります。それでは、授乳役の乳母はどうしているのでしょう。

撒米する乳母 [エ]の人物が乳母のようです。⑩丸い銀盤を抱えています。これは何でしょうか。この中には米粒が入っていて、悪霊や悪神を追い払うために撒(ま)き散らします。米には、神聖な力が宿っていると信じられたからです。この風習を撒米(散米とも)と言い、病気・出産あるいは祓(はらい)などの時にされました。病気も悪霊のせいだと考えられていたからです。赤子に、何か不吉なことが起こったことを匂わせています。ここは、吐いたりもしたので、まがまがしい悪霊が取り憑いたのかと判断され、乳母が急いで撒米をしているのです。ちょっとした騒ぎになっていたのでしょう。[オ][カ]の女房も廂に来ています。

夕霧の姿勢 ここに、[イ]夕霧もやって来ました。この場にいたのではありません。このことは、どこで分かるでしょうか。一つは、その姿勢です。夜着ともなる大袿の裾を見せて、体は⑤壁代(壁の代りにする帳)をくぐり、⑦丸柱に右手をかけ、母屋の中をのぞきこんでいます。この姿勢は、今ここに来た様子を示しています。もう一つは、画面左側の⑭障子[注2]が中途で開いていることです。これは、人が通ったこと、すなわち過去の時間を暗示する絵巻の表現法です。夕霧が、騒ぎに気づいて、やって来たことを示しているのです。

なお、障子が閉め忘れているとして、ここから悪霊が入りこんだとする見方がありますが、どうでしょうか。室内に入ってしまえば、天井などもない開放的な寝殿造ですので、悪霊はどこにでも現れます。問題は、格子や妻戸から室内に入れるかどうかでしょう。

夕霧の思い やって来た夕霧は、雲居雁をどのような思いで見つめているのでしょう。何となく、けげんそうな顔つきのようにも見えますね。夕霧は、「耳はさみ」して、すっかり主婦然としている雲居雁に、満たされないものを感じているのです。この点は物語本文を参照しなければ分かりませんが、夕霧は、亡き友柏木の妻、落葉宮(父・朱雀院、母・一条御息所)に思いを寄せ、その邸から夜更けて帰宅していました。雲居雁の姿は、恋の雰囲気とは無縁なのです。また、赤子の夜泣きの原因を、帰宅した夕霧が格子を上げたために進入した物の怪のせいにしています。夕霧の思いを想像すると、この授乳シーンは、新たな恋に傾く中年の夫と育児にいそしむ妻とのギャップを暗示していることになるのです。

参考―『源氏物語』「横笛」巻の当該本文

 この君いたく泣きたまひて、つだみなどしたまへば、乳母も起き騒ぎ、上も御殿油近く取り寄せさせたまて、耳はさみして、そそくりつくろひて抱きてゐたまへり。いとよく肥えて、つぶつぶとをかしげなる胸をあけて、乳などくくめたまふ。児も、いとうつくしうおはする君なれば、白くをかしげなるに、御乳はいとかはらかなるを、心をやりて慰めたまふ。男君も寄りおはして、「いかなるぞ」などのたまふ。撒米(うちまき)し散らしなどして乱りがはしきに、夢のあはれも紛れぬべし。
【訳】この若君がひどくお泣きになって、吐いたりなどなさるので、乳母も起きて騒ぎだし、北の方(雲居雁)も灯火を近くに取り寄せなさって、額髪を耳にはさんで、せわしなくあやして抱いておられる。とてもよく肥えて、ふっくらときれいな胸をあけて、お乳などを含ませなさる。赤子も、ほんとにかわいらしくいらっしゃる若君なので、色白くきれいなのだが、お乳はまったく出ないけれど、気休めに含ませてなだめておいでになる。男君(夕霧)も近く寄ってこられて、「どうしたのだ」などとおっしゃる。(乳母が)散米をまいたりなどして騒々しいので、(柏木を)夢に見た哀しい思いも紛れてしまうことだろう。

* * *

  1. 「とのあぶら(殿油)」が「となぶら」に変化して、敬語の「御」がついた形。「殿油」は、御殿でともす油火のともし火のことで、「大殿油(おほとのあぶら・おほとなぶら)」に同じ。多くは、灯台の火。
  2.  今日の襖。絵が描かれ、和歌・漢詩などを⑱色紙形に書いて貼りつける。ここの絵は、峻険な山岳が描かれて中国風なので、唐絵という。障子は、⑰鴨居と、上長押の高さとの間に嵌め込み式の押障子を嵌め、鴨居と敷居の間に二枚置いて、これを開閉する。⑭の障子の上部にも嵌め込み式の押障子があるはずだが、吹抜屋台の技法によって描かれていない。

筆者プロフィール

倉田 実 ( くらた・みのる)

大妻女子大学文学部教授。博士(文学)。専門は『源氏物語』をはじめとする平安文学。文学のみならず邸宅、婚姻、養子女など、平安時代の歴史的・文化的背景から文学表現を読み解いている。『三省堂 全訳読解古語辞典』『三省堂 詳説古語辞典』編集委員。ほかに『狭衣の恋』(翰林書房)、『王朝摂関期の養女たち』(翰林書房、紫式部学術賞受賞)、『王朝文学と建築・庭園 平安文学と隣接諸学1』(編著、竹林舎)、『王朝人の婚姻と信仰』(編著、森話社)、『王朝文学文化歴史大事典』(共編著、笠間書院)など、平安文学にかかわる編著書多数。

■画:高橋夕香(たかはし・ゆうか)
茨城県出身。武蔵野美術大学造形学部日本画学科卒。個展を中心に活動し、国内外でコンペティション入賞。近年では『三省堂国語辞典』の挿絵も手がける。

『全訳読解古語辞典』

編集部から

三省堂 全訳読解古語辞典』『三省堂 詳説古語辞典』編集委員の倉田実先生が、著名な絵巻の一場面・一部を取り上げながら、その背景や、絵に込められた意味について絵解き式でご解説くださる本連載。次回は「鈴虫(一)」の段を取り上げます。画面に描かれた、庭を眺める女性は誰なのかが、問題となってきた絵です。お楽しみに。

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