「へ」や「様」という文字や「ハートマーク」には、ここ2回に掲げたように点々という記号が付されることがある。「!」(イクスクラメーションマーク・びっくりマーク)にも、同様に「=」のような2つの線が書かれることがあった。やはり文末の句読点のごとき役目を、この点々のたぐいが兼ねている可能性が考えられる。
「」は、手紙や色紙のたぐいで、「……宛」という意味で用いられることが多く、名前の部分や「君」などの敬称、ひいては文章の部分を注目させるとともに、それらと区別し、機能を特定する記号としての役割も負わされているようだ。誰宛の手紙かということが一瞬で認識できるのである。相手のところに、ちょうど止まるような意味をもつようなイメージがあったという意見もある。間違いありません、という確認や念押しの意味を見出す女子もいる。「御中」のような意味のほか、「へ」では失礼なので、手紙で行われる二重線で自分宛の「様」「御」を消すかのように「〃」で取り消している、という待遇表現を兼ねた見せ消ちのようなとらえ方もなされている。人々の間で、それに対する解釈は、こうした例のように種々に行われており、新しいところでは、「バイバイ」と手を振る絵文字の右に付される漫画風の動線 (motion lines) やブレのような線と重なる気もするとの指摘も聞かれる。
また、簡易すぎる字面が寂しく、「間抜け」に見えてしまう欠点を補う働きも見出される。「へ」が「屁」に通じてしまうことも別の観点から間抜けではあった。とにかく無愛想とか素っ気なく感じられてはいけないという。また、しまりを与えるという点では以前に触れた「〆」(しめ)とも関連してくる。漢字でもバランスが取りにくかったり、字画が物足りなかったりする字体には、「捨て点」や「補空」が加えられることがあった。たとえば「人」に「〃」が加えられるといった異体字の一群である(ただし、それは「仁」によるという見方など、もとは別字だったとの説も江戸時代には唱えられている)。
「文」という漢字にも、「彡」が加えられた字があるなど、類例も挙げられる。『誹風柳多留』(第24編まで)では、「文」と、「文」に「〃」とさらに右下に「、」が加わった崩し字は、「ふみ」という和語で読むべき例の表記だけに使われているという(前田富祺「川柳の漢字」『漢字講座』7)。見栄えばかりの話ではなさそうで、読みを字形で分担していたようだ。こうした「ふみ」の字や、手紙には「〃」を足すという習慣も、かつて手紙での「へ」の形に、影響を与えたという可能性も押さえておきたい。
この「」という一つの事象が広く定着したのには、まだほかにも種々の要因が絡まり合っていたことが想像される。「へ」では、助詞の「e」ではなく、カタカナの「ヘ」(現在では多くの文章で「he」と発音する際にだけ使われている)とも読み間違えられかねない。そして、前述のように「屁」に通じかねないので避けたい、なんていう意識もあり、実際にあえて「江」が使用される場合もある(火消しに「へ組」がなかったことも有名だ)。「」は、「え」や「江」の字形から変化したものか、その「エ」が3画なので、「へ」も3画にしたのかな、という推測まで見られる。「〃」で音を半分に断裁するというイメージを抱く者もある。「その文字の本来の意味を一度消す」とか、「へ〈の手紙〉」「へ〈向けて・宛てて〉」などの細かい文句を省略した記号とする意見と通じる点があろう。何かの変形といえば、「心」という字の変形と見る意見も複数あり、文字に深い意味を求めようとする日本人の心性をここでも見た思いがする。
「へ」を表音的に「え」と記し、その「え」の末尾にやはり「〃」を貫いてみたり、「え゛」(これはここでは濁音符ではない)としてみたり、女子ではグループごとに種々の応用がなされる。こうすることで、確かに宛名との切れ目が明確にもなり、見分けやすくならないこともない。そっくりなカタカナの「ヘ」や、記号の「~」「ー」(伸ばし棒と呼ばれている)など、別の字や記号と区別するために付けられた、いわば示差的特徴として認識されることもある。「0」「7」「Z」などに点画が加わるのと同様にしつつ、宛先として目立たせるというのだ。
先に触れた人生の先輩たちに、都内の小学校の跡地でお話をする際には、こちらも教わることが少なからずある。せめて双方向の授業をと心掛ける中で、年配の女性から、新潟の「田舎」の女学校で、60年くらい前に「○○様」としたためることがすでに流行していた、という記憶を語っていただいた。これには、脈々と受け継がれているこの字のことがだいぶ分かったような気がして、とても感激した。「たわいもないことでした」と、理由も特に意識されていなかったそうだが、女子は今日のケータイメールに至るまで、さまざまな身の回りのものと同様に、文字をも飾ろうとする傾向が続いていたのだ。これを聞いて、ほかの方にもうかがってみると、なるほどその頃にはあちこちで見られたそうだ。
戦後間もなく、あるいは大正期辺りの女学生であれば、書道も欧文も、ある程度まで嗜みとしても習っていて、古来の伝統についての教養も今よりは概して高く、舶来の事物への憧れもすでにあったことであろう。そこで、この流行が始まったという可能性も感じている。そもそも「ノノ点」と呼ばれる繰り返し記号「〃」も、東洋の「=」(々の祖形)やその崩し(さらに「ヒ」「ヽ」などとなる)のたぐいと、西洋の「,,」との影響を受けて、日本で発展したものなのでは、と私は考えている。江戸時代には、日本独自の「ハ」のような形の記号がお家流で縦書きに記された文書の中で、右行を受けて反復させるために、一般的に使われていた。引用符もまた同様なのではなかろうか。
上記の理由のうちで、実際にいくつかが複合していたことが考えられるが、この「」という字が生まれた時、そして広まった時には、それはどこまで意識されていたのだろう。あるいは、何となく感得できるものがあっただけで十分な、軽い存在だったのかもしれない。
縦書きで記された60年以上前のそれらの手紙は、どこかに1通でも残っていないだろうか。歴史の闇に埋もれさせてはならない、という思いがする。文字コードの関係でパソコンでは、この「」はふつう打てない。紙と違って画面上では、ほとんど需要がないのであろう。この先、筆記媒体がさらに移り変わっていくなかで、「」は、どういう意味を意識されながら、どのような人々の間で、いつまで伝承されていくのかも、追いかけ続けていきたい。