場面:雲居雁が夕霧にきた文を奪おうとするところ
場所:夕霧・雲居雁の住む三条殿の対の屋か
時節:光源氏50歳の八月下旬の宵
人物:[ア]冠直衣姿の左大将夕霧、29歳 [イ]単衣姿の雲居雁(父内大臣、母は按察大納言と再婚)、31歳 [ウ]袿姿の大輔の乳母か [エ]表着と裳姿の侍女
室内:①文 ②生絹(すずし)の単衣 ③指貫の括り紐 ④高麗縁の畳 ⑤硯箱 ⑥屏風 ⑦板敷 ⑧硯 ⑨筆架(ひっか) ⑩小刀 ⑪・⑫・⑬鞘(さや)に入れた筆 ⑭墨柄(すみつか)に挟んだ墨 ⑮水差 ⑯引き違い式障子 ⑰上長押 ⑱厨子 ⑲釘隠 ⑳柱 鴨居 色紙形 障子 母屋 廂 蝙蝠扇(かわほりおおぎ) 裳
絵巻の場面 この場面は、[ア]夕霧に届いた①文を、懸想文と勘ぐった妻の[イ]雲居雁が奪おうとするところを描いています。夕霧は、亡き柏木の妻、落葉宮に思いを寄せていて、雲居雁は不安に思っています。それで落葉宮からの文と思って奪おうとしたのです。この文は、じつは落葉宮からのものではなく、その母一条御息所からのものでした。一条御息所は、病気療養のため比叡山山麓の小野に滞在していて、その見舞に出掛けた夕霧は、落葉宮を口説こうとしました。この時は落葉宮に拒否されましたが、夜明けころに夕霧が帰るのを、加持祈祷にあたっていた僧に見られていたのです。この僧が一条御息所にそのことを告げ、落葉宮は夕霧と関係していると思い込みました。そして、一条御息所は、落葉宮に宛てた夕霧の誠意のない文を見て、真意を聞こうとした返事が、この文なのでした。
雲居雁の姿 それでは画面中央に大きく描かれている雲居雁の姿を見てみましょう。やや前かがみの姿勢は、夕霧が見ている文を奪うためであることは明らかですね。左手は鬢の毛を押さえ、伸ばした右手は文に向かっています。顔は引目鉤鼻の技法で描かれていますが、嫉妬して怒っているような表情にも見えます。
着ているのは、袴と②生絹の単衣です。この単衣は生糸で織られていて、軽くて薄いので、左の乳房や腕などの肌が透けて見えます。この衣裳の雲居雁をあられもないと非難する人もいますが、暑い頃には普通の恰好でした。けれども、今は陰暦の八月下旬、中秋の時節ですので、折に合いません。問題は、なぜこの姿で描かれたのかということです。「寝起きのままの姿」とする説がありますが、この時節に生絹の単衣で寝ることは考えられません。また、「常夏」巻で単衣姿での昼寝を父内大臣にとがめられたことを連想させて貴族女性にふさわしくない姿を描こうとしたとする説もあります。しかし、ここは、文を奪おうと、衣ずれの音を立てる袿などを脱いで、そっと近づこうとしたからではないでしょうか。雲居雁の姿は、文を奪うことに集中する様子を描いていると思われます。
夕霧の姿と文 文を奪われる夕霧は、どうでしょうか。指貫をはき、直衣は袖に腕を通してうち掛けただけの恰好で、下の衣が見えています。右の足もとに見えるのは、指貫の裾を括る③括り紐です。くつろいだ姿で、やや④高麗縁の畳からはみ出すように描かれているのは、急いで文を見ようとしたことを表しているのかもしれません。
手に持つ文は、原画では紅色の紙に銀砂子を蒔(ま)いた裏になっていますので、表側も色紙に箔などを置いているのでしょう。高級な紙になります。しかし、筆跡は、物語に拠りますと、鳥の足跡のようで、判読しにくいものでした。
『源氏物語』の本文 以上のことは、物語本文では次のようになっています。
宵過ぐるほどにぞ、この御返り持て参れるを、かく例にもあらぬ鳥の跡のやうなれば、とみにも見解きたまはで、御殿油近う取り寄せて見たまふ。女君、もの隔てたるやうなれど、いととく見つけたまうて、はひ寄りて、御後ろより取りたまうつ。
【訳】宵が過ぎるころに、夕霧が落葉宮に贈ったお返事を使いの者が持って参ったが、このようにいつものとは違った鳥の足跡のような筆跡なので、すぐにもお読み解きになれず、灯台の火を近くに引き寄せてご覧になる。女君(雲居雁)は、調度品で隔てられていたようだが、じつに素早く見つけなさって、そっと近寄って、背後から取ってしまわれた。
絵柄に相当する物語本文は、上記が中心になります。雲居雁や夕霧の衣装、及び⑤硯箱は絵巻作者の創作で、逆に本文にあった「御殿油(灯台の火)」は描かれていません。また、一条御息所の文は、「捻文(ひねりぶみ)」という、巻いた手紙の両端をひねり折った形のようでしたが、絵巻では違っています。筆跡が「鳥の跡のやう」とされたことも絵巻では分かりません。しかし、「もの隔てたるやうなれど」とあったのを、大和絵の描かれた⑥屏風で示していると思われます。雲居雁は、この屏風の後ろからやってきたのです。絵巻は、やはり雲居雁が文を奪う直前の一瞬に絞って描いていることになりますね。
硯箱の意味 次に⑦板敷に置かれた⑤硯箱が大きく描かれていることを考えておきましょう。この大きさを実物大に近いととるか、誇張ととるかで説が分かれます。縦横約47センチ・高さ11センチの大きさのものがあったようですが、貴族の私邸では不要でしょう。ここは、手前を大きく描く遠近法によった誇張と思われます。夕霧は文を奪われますので、返事が書けません。翌日の夕方、夕霧は「硯おしすりて」、返事をどう書いたらいいかと思案する場面があります。硯箱が描かれたのは、ここを参照したのかもしれません。そうしますと、文を奪われた後の夕霧の様子を先取りして暗示したのだと思われます。
なお、硯箱の側面には文様がありますが、よく分かりません。中には、中央に⑧硯、画面右側に⑨筆架(筆かけ)に置いた、紙を切る為の⑩小刀と⑪・⑫鞘に入れた筆が二本、左側には同じく⑬鞘に入れた筆が一本と⑭墨柄に挟んだ墨が見えます。隅にあるのは⑮水差です。箱の蓋は描かれていませんが、当時の貴族たちはお盆のように使用していました。
画面の構図と室内 さらに画面の構図と室内を確認しましょう。画面は、⑯引き違い式の障子がはまる⑰上長押の線と、画面左上に二脚並べられた⑱厨子の線によって斜めの構図になっています。その線に沿って、雲居雁が迫るように近寄っています。この構図も雲居雁を焦点化しているようです。
⑲釘隠の見える⑰上長押の下に、⑳柱間に渡された線は鴨居で、この上にも横長の障子が張り込められます。ここには色紙形が見えます。反対側の⑱厨子は、押し入れやタンスなどのなかった寝殿造において、各種の調度品を収納する家具の一つでした。これを唐櫃とする解説もありますが、これは長側面に外側に反った脚が二本つきますので、ここは厨子になります。側面には木立や鳥が描かれています。厨子の上に棚をおけば厨子棚です。厨子の奥にも障子が見えますので、夫妻のいる所は母屋となります。
女性が二人いる所は廂です。雲居雁が文を奪ったあと、夕霧と夫婦喧嘩になり、それを「大輔の乳母」が聞き耳を立てていたとされていますので、[ウ]袿姿がこの人物かもしれません。手には、蝙蝠扇(紙を張る扇)を持っています。もう一人は、物語で語られていませんが、裳だけで唐衣を着ない略正装になっていますので、侍女になります。
絵巻の主題 最後に絵巻の主題です。いろいろな説がありますが、「横笛」段と共に夕霧家の家庭内の悲劇を描いたのだと思われます。夫への文を妻が奪うのは、夫婦仲が危険になっているからで、悲劇でしょう。この両巻に対して、「柏木」「鈴虫」「御法」段は、光源氏家の悲劇でした。密通した妻の出家、もう一方の当事者の病と死、不義の子の生誕、過去の密通の暗示、紫上の死、いずれも家庭内の悲劇です。絵巻は父光源氏と子夕霧のそれぞれの家庭内の悲劇を対象化して連続させていると言えましょう。
*2017年3月8日に一部、修正を行いました。