場面:女踏歌(おんなとうか)で妓女が舞うところ
場所:平安京内裏の紫宸殿南庭
時節:1月16日
建物:Ⓐ御階 Ⓑ紫宸殿 Ⓒ南庭 Ⓓ左近の桜 Ⓔ右近の橘 Ⓕ高欄 Ⓖ南簀子 Ⓗ半畳 Ⓘ筵道
装束:①笏 ②緌の冠 ③太刀 ④櫛 ⑤扇 ⑥畳紙
人物:[ア]束帯姿の文官 [イ]近衛府の武官 [ウ]・[エ]唐装束の舞妓 [オ]舞の師か
絵巻の場面 前回に続いて、女舞の様子を見ることにします。今回は、女踏歌といい、正月十六日の「踏歌節会(せちえ)」として行われました。
踏歌とは、集団で大地を踏み鳴らして歌い舞う儀礼を言います。中国から伝えられて、日本の歌垣(うたがき)という男女が集団で歌を詠み交わし、舞踏などをして楽しんだ行事と結びついたものとされています。奈良時代から行われ、当初は男女の別がありませんでしたが、平安時代になって女踏歌だけになり、さらに十四日に男踏歌もされるようになりました。しかし、男踏歌は十世紀後半に廃絶し、以後は女踏歌だけになっています。
なお、十一世紀初頭に成立した『源氏物語』に男踏歌の様子が語られていますが、それは物語が十世紀初頭あたりに時代設定をしたためで、紫式部は何らかの記録によって語っていることになります。
女踏歌の場と時間 最初に、女踏歌の場と時間を確認しましょう。画面には十八級のⒶ御階が描かれていますので、Ⓑ紫宸殿のⒸ南庭で行われたことが分かりますね。画面右には、Ⓓ左近の桜、左側はⒺ右近の橘でした。これは南面する天皇から見ての左右でしたね。紫宸殿はⒻ高欄からⒼ南簀子までしか描かれていませんが、この奥には天皇が出御(しゅつぎょ)していて、王卿(おうけい。親王や公卿)が控えました。
紫宸殿の床下にはⒽ半畳が敷かれ、東側には儀式の進行役となる二人の[ア]束帯姿の文官が①笏を手にして坐っています。この二人は弁官・少納言・内記(中務省の官人)などの身分で、西側は蔵人所の官人が坐りました。桜の木の下にいるのは、②緌の冠で③帯剣していますので、[イ]近衛府の下級武官でしょう。
この場面の時間は、松明などが描かれていませんので昼間と思われるかもしれません。しかし、当時の記録を調べてみますと、平安時代初期には夕刻ころに終わっていますが、中期以降は、夕刻から始まって照明が用意されていますので、昼間ではないことになります。篝火や松明などは、この画面で描き忘れたのでしょうか。
女踏歌の次第 続いて儀式の次第を確認しましょう。天皇の紫宸殿出御から始まります。王卿が参入して昇殿し、御膳が供されて、三献となります。一献で国栖(くず。大和国吉野群国栖地方の住人)が承明門(じょうめいもん)の外で歌笛を奏します。二献で御酒勅使(みきのちょくし)が天皇から御酒を賜った旨を伝え、三献で雅楽寮の楽人が承明門内側で立楽(立ったままでの奏楽)を奏します。そして、舞妓による踏歌となります。
舞妓たち それでは踏歌の様子を見てみましょう。[ウ]舞妓たちは、前回と同じく内教坊の妓女たちのほか、中宮や東宮に属する女蔵人(にょくろうど。下臈の女官)などが当たりました。女踏歌では四十人が選ばれたようです。舞用の唐装束で、髪上げして④櫛を挿し、右手に⑤扇、左手には薄様を重ねた⑥畳紙をかざしています。舞の列から外れている二人の女性は、[オ]舞の師と思われます。
舞妓たちは、控室となった校書殿(きょうしょでん)の西側を通って、南端の月華門(げっかもん)から南庭に入ります。今回の線描では割愛しましたが、原典ではこの参入の様子が描かれています。南庭からは、いったん南行してから向きを変えて北行し、御階の前に到りました。画面で上半身だけ描かれる[エ]舞妓は、南行しているところになります。
画面には、「口」の字形のⒾ筵道が敷かれ、その上を舞妓たちが舞いながら右回りに歩を進めています。『中右記』と呼ばれる平安時代後期の日記には、その様子を「厳霜ヲ踏ムガゴトシ」と記しています。着実に地を踏みしめている様子が彷彿としますね。
踏歌は、三周するのが作法でしたので、画面を見るかぎり、そのまま回り続けたように見えます。しかし、『江家次第(ごうけしだい)』という有職故実書には、舞妓たちは二列に分かれて進み、大輪を描くように一周した後に、再び分かれて南行してから北行して回ると記されています。図は、これとは違った回り方になるようです。
舞が終わりますと舞妓たちは校書殿東側に整列し、歌を唱えました。この折の歌詞は、天皇在位を延ばし、豊年を祈る漢詩で、音読しました。その合間に「万年阿良礼(よろずよあられ)」という囃しを入れたので、踏歌のことを「あられはしり」とも言いました。
唱歌してから南庭を退出し、中宮のもとで饗応され、禄をもらいました。
早くに廃絶した男踏歌は、宮中での踏歌が終わってから、京内の主要な邸宅を回りましたが、女踏歌ではそれがありません。ここが大きな違いとなっています。
画面の意義 最後に画面の意義について触れておきます。正月には三節(みおり)といって、「元日節会」「白馬節会(あおうまのせちえ)」「踏歌節会」という公式の饗宴が行なわれました。踏歌節会は重要な儀礼であったわけです。ですから、女踏歌がこうして描かれたのは、他に例がないので、きわめて貴重なのです。
なお、踏歌節会は断続的に明治初期まで続きました。現在では、宮中のほかに奈良の興福寺、名古屋の熱田神宮、大阪の住吉大社などでも行われていますので、往時を偲ぶことができます。