日本語・教育・語彙

第13回 「美しい日本語」「正しい日本語」への疑問(8):そもそも美しさとは何か

筆者:
2017年8月18日

美しいといわれて思い浮かべる芸術には、「モナリザ」や「ミロのヴィーナス」などが挙げられる。整った顔立ちや魅惑的な微笑、また黄金比などが美しさの要因と一般には言われる。そうした造形的・芸術的な美以外にはどのようなものがあるだろうか。

「私が醜いものを最高に美しいと感じる理由」(jMatsuzaki //jmatsuzaki.com/archives/15414)では美しいものを「意義深いもの」「飾らず、原始的で、純粋なもの」と定義づけている。「泣きじゃくる人間や怒り狂う人間の顔は、すましたモデルの顔より綺麗ではないかもしれませんが、純粋であることによって美しいのです」とある。ここでいう純粋さというのは、利害や打算を超えてある一つの方向性や価値を象徴するものということではないか。これは私の考える美の定義に近い。純粋な方向性というものを定義に含めないとさまざまな美しさを一つの定義で語ることは難しいと感じるからである。

「醜い」とされるものを美しいと捉える意見はほかにもある。例えば「美しさを支える醜いアート」(ぐのっち https://matome.naver.jp/odai/2135541309174212901)、「世界に認められた「醜い」からこそ「美しい」モデル」(Asuka Yoshida //beinspiredglobal.com/ugly-is-new-beautiful)、「こんなに醜いのに「もっとも美しい賞」を勝ちとったヤギ」(らばQ, zeronpa //labaq.com/archives/51040806.html)である。なぜ「醜い」ものを書こう(見せよう/見よう)とするのだろうか。芸術を真実の表現と理解だと考えれば、真実が美しさにつながるのだ、と考えることができる。醜いことが美であるというのは形容矛盾だが、美をある種の方向性を持つものと考えれば、半端でないことが真実を焦点化して伝えるのだと言えよう。

音楽の世界にはいわゆる不調和音の連続で構成される前衛的な音楽がある。シェーンベルクが完成させたといわれる十二音技法の曲などは現代の前衛音楽にも多大な影響を与えたと言われるが、いわゆる心地よい音楽ではないだろう。なぜシェーンベルクが無調性の音楽を志すようになったのか、ここで語る用意はないが、既存の権威的な美しさからの解放、あるいは挑戦であったことは間違いない。これも真実の表現の一つだといえるかもしれない。

ところで、上述の醜くて美しいヤギの話はサウジアラビアで行われたコンテストの話で、紹介者の書いた文章の冒頭に「美しさの基準なんてものは文化や時代によって変わるもの」とある。当然だが、何を美しいと考えるかは時代や場所により大きく変化する。平安時代にふくよかな頬と切れ長の目が美しいとされていたことは有名である。そこには、見る側は一方的に美しさを消費しているだけではなく、美しさの社会的な概念を構成する主体でもあるという考え方がある。例えば山田良治氏は景観形成の公共性を論じる中で「(美は)対象を反映する人間の主観に属する」という立場に立つと述べている(山田2009, p.279)。さらに狩猟の対象としての動物を描いた洞窟壁画を例に「労働対象に対する関心の生成が美意識形成の萌芽である」(山田2009, p.280)と述べ、都市景観などの人工的景観について労働との関連を論じている。「社会的美意識」について「道徳やイデオロギー,科学的認識など他の意識諸形態の影響を受け,それらとの相互作用の中で存在」し、「多層的に形成される社会的意識の構成要素として,社会的意識一般との相互関係の中で多様に変化・発展」し、「労働生活・消費生活の多様化・高度化とともに」「人間の美意識と美しさへの感動もまたその形態及び内容の両面で同様に進化していく」としている(山田2009, p.281)。

「ジョブズは、醜い技術の世界を、美しくした」(“R.I.P. Steve Jobs. You touched an ugly world of technology and made it beautiful.”)とはニューヨーク・タイムズに引用された言葉であるらしい(茂木健一郎 //blogos.com/article/20787/)。言うまでもなくAppleの創業者であるスティーブ・ジョブズの美学について述べた言葉である。ここで茂木氏は、ジョブズがユーザーの「エクスペリエンス」の質を重視したことをたたえている。そしてそれに賛同するユーザーがいたからこそ、そこに一つの新しい美の形が生まれたのだといえる。美は商品化され消費の対象にもなるが、機能を一義的な目的に制作される製品であっても美は重要な要素になる。

これらに共通するのは、人々からの働きかけによって美が作られ、そして形を変えてゆく、ということであろう。人々の体験を高めることによって美しさを得ようとする、その試みはいつの時代でも行われていることなのだろう。

 

ここで論じてきたことをまとめると、おおむね以下の2点に集約できる。

第一に、個性や真実が、ある一つの方向性や価値をもつものとして純粋に表現されたものが美しさの一つの要件ではないか、ということである。

第二に、美しさの社会的な基準は時代や文化によって変わりうるものであるということである。人々が持っている美しさの基準によって、その産物として作品や環境・景観が作られるが、出来上がった産物自体がまた人々に働きかけ、新たな美しさの基準を生み出していく。人々と作品・景観の間の相互作用が美しさに影響するということである。

この2点を、前回までの言葉の美しさに議論に引き付けて考えると、言葉の美しさにも様々なタイプのものがありえるのであり、しかもそれは言葉と、それを使う人々が相互に影響しあって変化していくものだ、ということになるであろう。言葉の美しさとは、例えば朗誦される名作などの中だけに閉じ込められて存在するようなものではなく、使い手の創造性、受け手の想像力によって次々と生み出されていくものであるし、日常の中にもハッとさせられるような真実があり、それを含む言葉に気づかされることでもある。

 

参考文献

山田良治(2009)「美意識の発展と景観形成の公共性」(『和歌山大学観光学部創設記念論集』2009, pp.279-292)

筆者プロフィール

松下 達彦 ( まつした・たつひこ)

東京大学グローバルコミュニケーション研究センター准教授。PhD
研究分野は応用言語学・日本語教育・グローバル教育。
第二言語としての日本語の語彙学習・語彙教育、語彙習得への母語の影響、言語教育プログラムの諸問題の研究とその応用、日本の国際化と多言語・多文化化にともなう諸問題について関心を持つ。
共著に『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』(凡人社 2007)、『日本語学習・生活ハンドブック』(文化庁 2009)、共訳に『学習者オートノミー―日本語教育と外国語教育の未来のために』(ひつじ書房 2011)などがある。
URL:http://www17408ui.sakura.ne.jp/tatsum/
上記サイトでは、文章の語彙や漢字の頻度レベルを分析する「日本語テキスト語彙分析器 J-LEX」や、語彙や漢字の学習・教育に役立つ「日本語を読むための語彙データベース」「現代日本語文字データベース」「日本語学術共通語彙リスト」「日本語文芸語彙リスト」などを公開している。

『自律を目指すことばの学習―さくら先生のチュートリアル』

編集部から

第二言語としての日本語を学習・教育する方たちを支える松下達彦先生から、日本語教育全般のことや、語彙学習のこと、学習を支えるツール……などなど、様々にお書きいただきます。
公開は不定期の金曜日を予定しております。