成人式は、満20歳を迎える誕生日とは別に、大人への仲間入りの儀式として一定の意味をもちつづけているようだ。
ある学生が言った。年齢を数える接尾語「サイ」の字は、「はたちを過ぎたら『歳』で、それまでは『才』を当てているのかな」と漠然と思っていました、と。このような意識のあることは、複数の学生に確かめられた。これはいってしまえば俗解なのだが、なぜ生じるのだろうか。
「サイ」については、「子供には才、お年寄りには歳」と感じるという人も少なからずいる。これは、一つには字体の醸し出す、見た目の雰囲気が影響しているのであろう。「才」がさっぱりとして元気も良さそうにも見えるのに対して、「歳」はシワシワの顔に見えたり、杖を持ったお年寄りのように、見えないこともない。
それ以上に大きいのは、学習時期の差である。「才」という字は、いわゆる教育漢字で、小学校に入って2年目に早々と習う字である。ただし、「才能」「秀才」などタレントというような意味としてである。一方、「歳」は、中学校に入るまで、新出漢字として学ぶことがない。
すると、小学校では、「わたしは8歳」とは書けないことになる。そこで現場の先生によっては「8さい」よりは「8才」のほうがましだ、として、2年生の配当漢字である「才」を使うことを教えることがある。これは、教育上の配慮ともいえる。しかし、中学に入れば、当然のように教員も変わり、その中で「実はね…」と知識を更新してくれる先生に恵まれる、とは限らない。また、仮にその説明をしてくれる重大な日に欠席していれば、もう謎は解けないままとなりかねない。そもそも、「最初に『才』のほうで覚えてしまうので、新たに『歳』という字を知ってしまったら混乱する」という意見もある。
年齢に「才」を用いるのは、日本独特の方法である。中国では「歳」と「才」は異なる発音・アクセント(声調)であり、通用することはなかった。日本ではいずれも「サイ」と同音となり、「歳」の略字のようにして「才」が用いられるようになった。
江戸時代には、「才」は、「歳」と同音だから用いているのではない、という説も現れる。「歳」の中に含まれる「」の部分を引っこ抜いてきたのだという。なるほど、今でも年配の方々に残されている字体は「才」ではなく「」という字体だったりするが、この説の当否は如何に。
社会に出るために人は、世の中の習慣を覚えていかなければならない。筆記の経済は、単位のような用法の字には強く働く。「圓」が「円」で固定した一因もそこにある。NHKでは、画面の走査線で字体がつぶれるため、「歳」を使う際には「才」を用いることを許容していた。これは、画面上で見るため、見せるための方策であり、その視認性は社会的な認知度を背景とするものである。子供でも理解できるという可読性は、世の中の使用実態を反映している。手書きで書くためには「歳」より「才」の方が経済性も高い。また、民放では才能といった意味も込めて「14才」を題に入れたドラマもあった。これらの原因が重なり、「才」の使用は世間で循環しているのである。
慣習を継承し、発展させていく新成人は、「歳」の中を「示」などと書かないだろうか。「はたち」という語をどう書くのだろう。常用漢字に従えば、「二十歳」、「二十」でも良い。少し変えて、「二〇歳」「二〇才」「二〇」、さらにたまに縦書きをしたとしても、「20歳」「20才」「20」と書く人もいるのだろうか。