キャラクタは倫理と深く関わっている。個々のキャラクタがそれぞれどんな行動を得意とし、どんな行動を不得意とするかを考えていくことは、社会倫理の一面を照らし出すことにもつながる。
だが、「倫理的な説明を考えさえすれば、キャラクタなど考える必要はない」というのは間違っている。以下、「倫理的な説明」の具体例を挙げる。
定延は、取引先の会社社長には徹底的にこびへつらう一方で、自分の部下に対しては恫喝を繰り返すというふるまいが、見る方も見られる方も気まずいという例を挙げた(第4回)。だが、この例は、『強者に媚びへつらう』キャラクタと『弱い者をいじめる』キャラクタが合わない」などとわざわざ考えなくとも、「『強者に媚びへつらうこと』にしても『弱い者いじめ』にしても、日本語社会では高く評価されていない。だから、この人物はみっともない」という倫理的な説明を考えれば、それで十分ではないか。
「ねー、お昼なんにしゅる~?」「んー、わかんないでしゅ~」などという甘ったるい恋人会話を他人に聞かれてしまった2人がはずかしいのも(第4回)、「デレデレするな」という社会倫理の違反と考えれば、キャラクタなど持ちださなくてよいではないか。友人どうしが結婚して子作り、それがいささかショックであるのも(第4回)、デレデレが或る意味、公然化してしまうからと考えて何が悪い。
同棲中は「俺を信じておいで」と言ってくれた、あんなに「勇ましい」と思えていた男が、いざ結婚しようと親のところに行ってみれば「眼をタジタジとさせ」「オドオドした姿」で親たちに「一言も言ってくれない」という林芙美子『放浪記』の例(第6回)も同様である。この男がみっともないのは、「俺を信じておいで」と言っておきながら親たちに「一言も言ってくれない」という、約束やぶりが原因だという倫理的な説明で十分ではないか。
超然とふるまっている男に対して、「知ってるよ。実は人生に悩んだ過去があるよね」と持ちだすのがためらわれるのも(第6回)、「人の弱点をほじくってはいけない」という社会倫理に違反しているからに過ぎないと考えてなぜいけない。
大家の坊ちゃんである奥畑が、わざと大家の坊ちゃんらしくゆっくりしゃべるのが不愉快なのも(第3回)、「大家であることをひけらかすことは倫理的によくないこと」にすぎない。定延がヒゲを生やして周囲に「定延さんがヒゲ」のようなことを言われ、定延があわてて説明するとか(第4回)、そんなこと知るかい。
このような社会倫理の存在じたいを、私は否定しようとは思わない。私が考えるのはまず、その倫理じたいにキャラクタの考えが含まれていないかということだ。たとえば「超然とふるまっている」男にとって「人生に悩んだ過去」がなぜ「弱点」になるのか、「弱点」になるのは、「超然とふるまっている男」は昔からいつも「超然とふるまっている」はずのものとされているからではないか、ということである。
さらに考えるのは、倫理違反のみっともなさを「キャラ変わり」が後押しすることがありはしないかということである。たとえば、婚約不履行を決然と敢行するのではなく、「勇ましい」から「眼をタジタジとさせ」「オドオドした姿」へキャラ変わりしているという記述が、男のみっともなさを倍加させていないだろうか。
まだ半信半疑でいる読者のために、もう一つだけ事例を追加しておこう。アニメ『ドラえもん』のジャイアンは『乱暴者』『いじめっ子』で通っている。そのジャイアンが或る日、困って泣いている子を見かけ、助けてやる。その子は驚いてジャイアンを見つめる。その時のジャイアンは、どんな様子か? 倫理的に悪いことは何もしていないので、無表情か。倫理的に良いことをしていると誇らしげか。いや、あなたのイメージされたジャイアンは、自分が柄にもない、キャラにもないことをしていると、はずかしげではないだろうか。私が言いたいのは、まさにそういうことである。
(絨毯屋は次回こそ。。。)