1951年4月、新興製作所は「和欧文印刷電信機」を完成しました。カタカナや数字に関しては、これまでの「和文印刷電信機」と完全互換で、その上にアルファベットをも追加した遠隔タイプライターの誕生です。6穴の鑽孔テープ上で、いわゆる「3段シフト」を実現した、新興製作所の技術の粋ともいえる遠隔タイプライターでした。『電気通信学会雑誌』1951年12月号に、谷村は、こう書いています。
本機は将来の利用発展を考慮し殊に和文欧文両用し得る如く考案されており、構造上3段シフト等従来用いられていない各種の工夫が払われている。この3段シフト機構としては3段活字をとりつけた新しい形のタイプバーを使用し、上中下段の選択はプラテンを上中下の3段に変位せしめて各段の文字を印字せしむるように設計されている。
ただし谷村は、この「和欧文印刷電信機」に関して、少し気がかりな点がありました。ウェスタン・エレクトリック社の特許に、抵触している可能性があったのです。たとえ抵触していなかったとしても、今後はウェスタン・エレクトリック社との技術提携が、新興製作所には必要だと考えていたのです。
谷村が渡米の準備を進めていた1951年12月、新興製作所を、冨岡辰雄という人物が訪ねてきました。冨岡は、朝日新聞社報道科学研究室の室長で、朝日新聞の本社・支社間を、印刷電信機で繋ごうとしていました。新興製作所の「和欧文印刷電信機」の技術を見込んで、漢字を送受信できる印刷電信機を共同研究したい、と冨岡は申し入れたのです。谷村は、即座にこれを引き受けました。勝算があったわけではありません。しかし、漢字を送受信できる印刷電信機は、いずれは開発しなければならないと考えていたのです。谷村は、小川をリーダーとする開発グループを組織し、「漢字テレタイプ」の開発に取りかかりました。
1952年4月27日、谷村は羽田空港にいました。技術者の関英夫を通訳に連れて、ニューヨークへと旅立ったのです。谷村にとって、初めての渡米でした。ウェスタン・エレクトリック社と技術提携契約を結ぶためでしたが、正直これは、かなり骨の折れる仕事でした。ウェスタン・エレクトリック社のケーン(Reuben E. Cain)との交渉の様子を、のちに谷村は、こう回想しています。
技術協定を切り出しましたらケーン氏は「いや、それは難しい」と言う。信用に関する問題も起しかねないと案じるようです。と言って私としては引くに引かれぬ背水の陣だから三拝九拝して必死に懇請した結果、漸くケーン氏も折れて「それならよろしい。あなたの人柄と技術を信頼して」と言って、長文の契約書を作り、これに調印しなさいと渡してくれました。鬼の首をとったような嬉しさで、早速ホテルにとって返し、通訳と二人で首っ引きで翻訳に没頭したが、これがまた無闇と難しくてサッパリ解らない。一つの条文が三十行にもわたる複雑な法律用語の羅列です。違約罰則の落し穴がアチコチにあるような、ないような、油断のならない難解の条文が果しもなく続いているので、二人で途方に暮れて終い、ケーン氏に請うて、調印を二、三日待って貰うことにした。
(谷村貞治(11)に続く)