クラウン独和辞典 ―編集こぼれ話―

86 和独辞典の見出し

筆者:
2010年4月5日

「独和辞典」に比べると「和独辞典」の数はずいぶん少ない。この関係は「英和」と「和英」、「仏和」と「和仏」についても同じことが言えよう。明治年間(1868-1912)に出た「独和」は25点ほどあるが、「和独」は6点しかないし、昭和年代(1926-1989)でも、「独和」48点以上に対して「和独」は13点でしかない(同書名の増補、改訂版や専門用語辞典を除く)。これは、彼我の間の学術・文化交流の在り方の一面の表れでもあろう。

本邦における「和独辞典」の嚆矢とされているのは、明治10年10月に刊行された『和獨對譯字林』で、最初の「独和辞典」が現れてから5年後のことである。この辞書は、見出し語はヘボン式ローマ字としながら、その排列を日本古来の辞書事典に倣って「いろは」順としたため、ABC文字の「いろは」順排列という、今日から見ればなんともちぐはぐな感じの、利用者にとってたいへん引きにくい辞書となった。私の亡友の数学者杉ノ原保夫君は昭和19年春に陸軍幼年学校に入校したが、入校式で新入生の名前が次ぎ次ぎと呼び挙げられていくのにいつまでたっても自分の名前が呼ばれない、ひょっとして自分の合格は間違いだったのかと不安になったが、ようやく最後に名前を呼ばれてほっとしたと言っていた。陸軍では当時まだ「いろは」順が採られていたので、「す」は最後になるのである。

日本の古い辞書事典の類は見出し語を「いろは」順にしている。大槻文彦博士は明治24年刊行の『言海』の見出し語を伝統的な「いろは」順でなく、あえて五十音順にしたが、その理由を「本書編纂ノ大意」の「十」で、「各語ヲ、字母ノ順ニテ排列シ、又、索引スルニ、西洋ノ「アルハベタ」ハ、字數僅ニ二十餘ナルガ故ニ、其順序ヲ暗記シ易クシテ、某字ハ、某字ノ前ナリ、後ナリ、ト忽ニ想起スル事ヲ得、然ルニ、吾ガいろはノ字數ハ、五十弱ノ多キアルガ故ニ、急ニ索引セムトスルニ當リテ、某字ハ何邊ナラムカ、ト瞑目再三思スレドモ、遽ニ記出セザル事多ク…」としながらも、続けて「五十音ノ順序ハ、字數ハ、いろはト同ジケレドモ、先ヅ、あかさたな、はまやらわ、ノ十音ヲ記シ、此ノ十箇ノ綱ヲ擧グレバ、其下ニ連ルかきくけこ、さしすせそ、等ノ目ヲ提出スル事、甚ダ便捷ニシテ、いろは順ハ、終ニ五十音順ニ若カズ、因テ、今ハ五十音ノ順ニ従ヘリ。」と述べている。しかし、大槻博士本人の手から『言海』を直接進呈された福沢諭吉は、「いろは」順でなく五十音順であることに顔をしかめたそうである(『ちくま学芸文庫 言海』(2004)所載の武藤康史「『言海』解説」による)。

明治以来、「和独」の見出し表記は「かな」でなくローマ字(大部分はヘボン式で、日本式、訓令式は僅か)で、排列はABC順が普通である。この慣例は『郁文堂 和独辞典』(1966)の出現まで踏襲され続けたが、同辞典は「序」で、日本語から他の国語に橋渡しする辞典でローマ字を見出しに用いるのは「その必然性がない」し、「かな」の方が自然であり、便利である、と述べて、「かな」見出し、五十音順排列の最初の「和独辞典」となった。

『クラウン独和辞典』の「和独インデックス」は、「かな」見出し、五十音順排列であることを念のため付言しておく。

筆者プロフィール

『クラウン独和辞典第4版』編修主幹 信岡 資生 ( のぶおか・よりお)

成城大学名誉教授
専門は独和・和独辞典史
『クラウン独和辞典 第4版』編修主幹

編集部から

『クラウン独和辞典』が刊行されました。

日本初、「新正書法」を本格的に取り入れた独和辞典です。編修委員の先生方に、ドイツ語学習やこの辞典に関するさまざまなエピソードを綴っていただきます。

(第4版刊行時に連載されたコラムです。現在は、第5版が発売されています。)