ドイツの町中で見かけるスズメは日本のスズメとやや異なる容貌をしている。とりわけ頭が灰色であるのが目につく。実は、これらのスズメはHaussperling(家スズメ)と呼ばれるもので、我々のスズメ、すなわちFeldsperling(スズメ、直訳すると「野スズメ」)とは別種である。ドイツに限らずヨーロッパで人間の身近に姿を見せるのは家スズメであり、野スズメは林や農地などに棲息する。ただし、日常語ではいずれも愛称的にSpatzということが多い。
家スズメの頭が灰色であると述べたが、実はそれはオスのユニフォームであり、メスは全体に地味な茶色を帯びている。家スズメは日本のスズメのように人間を恐れず、戸外で飲食しているとおこぼれに与ろうと擦り寄ってきたりする。その姿は可愛いらしいともいえるし、見方によっては図々しいともいえる。それを受けてか、ドイツ語にはfrech wie ein Spatz「スズメのように厚かましい」という言い回しもある。今回は、スズメに関するこのような慣用句やことわざをもとに、スズメに対してドイツ語人が抱くイメージを探ってみたい。
辞典類を調べると、何よりもスズメが小さなもの、取るに足りないものの比喩に用いられているのがわかる。Ein Spatz in der Hand ist besser als eine Taube auf dem Dach.「明日の百より今日の五十(<屋根のハトよりも手の中のスズメのほうがよい)」、mit Kanonen auf (nach) Spatzen schießen「鶏を割くに牛刀をもってする(<大砲でスズメを撃つ)」などがそれである。ein Spatzen[ge]hirn haben「脳みそが足りない」も文字どおりには「スズメの脳みそを持っている」ということでスズメには失礼な話だが、日本語の「雀の涙」にも通ずる楽しい表現である。
スズメのにぎやかな囀りをイメージした言い回しにもポピュラーなものがある。Das pfeifen die Spatzen von den Dächern.「そんなことは誰でもとっくに知っている(<そのことをスズメが屋根からぴーちくしゃべっている)」がそれである。ただし、その鳴き声があまり美しいものでないことは、Der Spatz will die Nachtigall singen lehren.「釈迦に説法(<スズメがナイチンゲールに歌を教えようとする)」にも現れている。日本語の「雀の千声、鶴の一声」などに近い発想といえようか。
これらの表現から共通して見えてくるのは、小さく身近な生き物であるスズメに対する「親しみ」であろうか。もちろん、ヨーロッパにおいてもスズメは穀物を荒らす「害鳥」として忌避されてきた長い歴史がある(実は害虫を食べる「益鳥」でもあるのだが)。しかし、少なくとも今日よく用いられることわざ・慣用句からは、スズメに対する「敵意」は感じられない。同じことは日本語についても言える。『新明解故事ことわざ辞典』に挙げられている9つのことわざのトーンには、今まで見てきたドイツ語の言い回しに通ずるものがある。近年、ヨーロッパや日本のあちこちでスズメが姿を見せなくなったというニュースを耳にする。スズメが言葉の上だけでの存在になりませんように。