総武線でその界隈を続けて通る日々だが、今日はお茶の水で降り、湯島へ向かう。
会議でなく、散策でもなくそこへ行くのは初めてだ。神田川に架かる聖(ひじり)橋は、湯島聖堂だけでなく、正教会のニコライ堂という大聖堂をも指しているとか、儒教からキリスト教までを同じ字で、それも「日知り」に由来するともいわれる和語によって表現してしまう漢字という文字の守備範囲の広さを、改めて実感する。
周辺の様子から考えてみれば、ハノイの孔子廟は、より賑やかだった。東京のそれは建物が黒く塗りかえられたためばかりではない。都心にあって訪れる人の姿も少なく、落ち着きが深いのは、あいにく土日など、施設内の公開日ではなかったためなのかもしれない。
庭には、有名な楷の木が2本見つかった。山東省曲阜にある孔子廟から種が持ち込まれ、育てられたそうだ。書体の楷書の名の元になった木だとされるが、緑の葉が生い茂っていて、枝葉が整然とした、ときに角張って直線的だといわれる枝振りがよく見えない。古文とよばれる書体が全盛の孔子没後に植えられている点や、模範といった字義との関連など、整理が必要そうだ。国立国語研究所にも、湯島の種子が移植されたとのことだったが、立川移転後、今も変わらぬ姿であるのだろうか。
聖堂に、真新しいが、昭和11年の文部省による文言が転記された掲示板が設けられていた。そこには、「混凝立」に「コンクリート」と振り仮名が付してある。
最後の字が「立」ではなく「土」となった「混凝土」は、よく見かけたものだが、これは原文でこうだったとすると、なかなか味わいがある。両字の字体が似ていて、「立」でも発音も近い点が気にかかる。当て字を否定する方針を固め、示していたはずの戦前の文部省による、当て字の工夫だったのだろうか。また、原物まで確かめたくなってきた。
今日は、高校の漢文の先生たちが多くお集まりになっているとのことで、そうした中であえて選んだ日本における漢字の話の中で、昌平坂学問所の故地であることとの関わりから、「濹」(ボク)という字について、触れてみた。林家(りんけ)八代目の林述斎先生が隅田川のほとりに別荘を設けて、漢詩文にその名を記すためにこの字を造ってから、ほぼ200年が経過した。その川は墨田区と同様に「墨田川」とも書かれ、漢学者たちは「墨水」などの雅称を設けていた。述斎は、中国における「河」「江」「漢」「湘」など川の名に対する1字による表現という先例にあやかり、その造字を実践したのだ。そのゆかりの地で、この字が成島柳北によって再び命を吹き込まれ、そして永井荷風の『濹東綺譚』によって、文学史にその名を残し、文芸だけでなく教科書などを通じてもかなり一般化したことをお話しする機会に恵まれた。これも奇縁であった。
来場された方々に親しみをもって伝わりやすそうで特徴ある例をあれこれと挙げる中で、多様性を極めつづける日本の文字と表記は、人々が十分にはコントロールできない状態にあるという点では、主催者の方々との話でたまたま出ていた原発事故と同じであるが、文字・表記の爆発的な拡大状況を被害として感じる人は、そう多くはないことに気付く。
漢字は、かつて庶民へ抑圧の力を発揮する苦難の象徴であると同時に、栄達への手段ともなった。古典に残る漢字を崇める現在のベトナムと、生活にありふれた漢字を楽しむ現在の日本。夏の日が少し翳り始めたころ、漢字圏に確かに今なおありながら、ハノイの孔子廟よりも人のまばらな湯島の聖堂を発った。