連載中の「漢字の現在」が単行本として、書店や図書館などに並ぶという幸いに恵まれた。このWEBで読んで、直接、間接に励ましてくださり、また情報をお寄せくださった方々、そして書籍の形に不眠不休で誠実に仕上げてくださった編集の方のお陰である。
連載は、まだまだ続くことになるが、とりあえず第108回までで、1冊にまとめてみた。世に百八煩悩というが、現代日本の漢字を中心として、文字や語から、字体や表記から、内側や外側から、身近なものや縁遠いものから、あれこれと目に付き、気になり、考え悩んだ経過と結果と見れば、なるほどもっともな数だと思う。そのうち、別の媒体に発表したものや、これから形を変えて公刊するものを除き、100回分近くを再編集したものである。
毎回アップしてもらった原稿のままでほぼいいかな、と初めは思っていたが、真っ白な校正紙を目の前に置くと、ついついあれこれと思い当たり、赤字を書き加えたくなる。WEBの画面と紙面とでは、そうとう雰囲気が異なるのである。横書きが縦組みにされただけでも、表情が全く変わってきてしまう。まず、口頭語的な表現は、紙メディアには似合わない。どんどん赤字が入る。画面上では気付かなかった誤植や遺漏も目に付いて、気にかかってくる。
そして何よりも内容も、一新したくなる。その時々で精一杯のことを書いているつもりなのだが、早いものでは4年近く経過した文章だ。私も今回、入稿する時点でその盛り込みは始まっていて、初校に及びそれが極まり、校正紙が真っ赤になるほど速筆による記入をしてしまった。初校だけでなく、再校でもそれは続き、編集や校正の方々には思わぬご面倒をお掛けしてしまい、申し訳ないことだった。そう思いながらも時間の限りそれは続けたのだが、物理的に可能なところまで許してくださった寛容さに、感謝するばかりである。
漢字などの日本の文字やことばを研究していると、これで完成で、もう安泰だ、という時はなかなか訪れない。子供の頃からずっと追いかけていても、追いついたという実感を得ることが難しい。なぜなら、漢字は、過去の情報は調べただけ見つかり、さらに現在も日々動きを止めずにいるからだ。変化や変異を含めて実態を追いかけていきたいので、毎日いや毎時、新鮮な逢着があり、ささやかな発見や思いつきも次々と立ち現れる。
むろん夥しい忘却も並行して起こるのだが、素材に関して新たに考え直すことが続く。変化に富む文字と同時代に生きる我々でも、文字は絶対性や保守性が意識を占めやすく、対象化しえないかぎり常識的な、いいかえると静的で閉じた存在として映ってしまう。その動態に気付きにくいのだ。つまり、今回、単行本化に当たって大いに増補訂正した訳は、テーマが漢字の「現在」だからである。
「ことばは生き物だ」と唱えた命題が聞かれる。「文字も生き物だ」という慨嘆も耳にする。しかし、それらはメタファーに過ぎない。ことばや文字それ自体に、固有の生命があるはずもない。それを生き物のごとく躍動させているのは、ほかでもない人間だ。そしてそれは一握りの政治家や官僚、学者ということではなく、それを読み書きするすべての人々なのだといえる。