漢字の現在

第137回 お母さんたちの文字

筆者:
2011年10月18日

幼稚園のお遊戯場でもあるホールでのお話の後、お母さんたちが代わる代わる演壇まで寄ってきて下さった。

カタカナって、何と教えればよいのかとのこと。外来語というわけではなくなっているようだし、とご指摘なさる。なるほど擬音語、擬態語も、ひらがな表記も多いし、外来語だって、「タバコ」のほか「たばこ」「煙草」などと揺れも呈している。ニュアンスを表現するための表記も、一定の変容を経ながら今もなお「テキトー」「センセー」など見受けられる。末尾に付く終助詞の「ヨ」「ネ」は、かなりひらがなに戻ったという感じがする。

「か」の「ゝ」がなくなって「カ」とかかな、どういう感覚で覚えていったんだろう、とのこと。私自身は、ひらがなをやっと勉強したのに、さらにカタカナまで覚えないといけないのか、と弱ったような記憶が微かにある。区内の小学1年生は、2学期から漢字とカタカナを同時に習っているのだそうだ。子供によっては大変そうでもないらしいが、世界に冠たる日本語表記の複雑さの洗礼である。

その幼稚園は、ひらがなも特に教えていないという。ポリシーをきちんと持っている良い幼稚園だ。一方、早い時期の漢字教育も、一部では試みられているそうだ。ひらがなのお稽古でも、点線をなぞりなさいという練習で、点線をそのとおりに、点々と切れ切れに書いてしまうような年代だ。自分の名前にどういう漢字があるのかを知らないような子たちが「鳩」「麒麟」「檸檬」などと読み書きするのは、驚異でもある。興味を持ったことを吸収する年代であることは確かだ。義務教育期間に、長野県でだけ行われている「白文帳」による徹底した漢字の反復筆記の宿題とともに、どういうプラス(マイナス?)の教育効果が漢字力だけでなく、その他たとえば記憶力や思考力にまで、後々現れているのか、とても興味深い。

幼稚園の集まりに参加されるお母さんたちは、熱心だ。話題と関係のない私語なんてしない。眠ったりもしない。人生経験が豊富なためか、打てば響き、多くの学生よりも反応がいい。気持ちも若いようで、「才色兼備」を「彩色健美」と書いた女子学生がいた、そこには「爽健美茶」が入っているようだと話すと素直に沸いてくださる。大学生を子にもつ世代に近い。ATOK2011は、誤った表記の「彩色健美」を確定しようとすると、「才色兼備」に直そうとしてくれる。「良妻賢母」を「料裁兼母」と書いた若者がいたとかつて読んだ気もするが、実際に学生からは「両妻賢母」なる誤答も出てくる。

「本気」と書いて、と尋ねると「マジ」。さすが漫画世代で、この表記と同時代を生きている。

「秋桜」も、普通にコスモスと読めるが、山口百恵の曲からと発端を言うと、「へー」と意外がってくださった。昭和のお生まれなので、やはりピンと来るようだ。

  「短丈」は、雑誌で見かけますが、何と心の中で呼んでいますか?

心中での発音を尋ねてみた。「たんたけ」「みぢかたけ?」。「ショートたけ」、出た。女子大生といっしょだ、同じですね、というと、「女子大生といっしょだって」と、ク~となって喜んでくださる。

才歳

表記の揺れについて、年齢にくっつく「サイ」の表記の差を聞いてみた。「歳」は正式なもので、願書とか年賀状に使うとのこと。「願書」というものが出てくるのは教育熱心さの賜物で、これもさすがだ。こういうところにも位相が現れる。「歳」は皺(シワ)が多そうな形なので、「才」は「シワが少ない年代に使う」という学生の意識を話すと、大笑いが起こった。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』
『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。