幼稚園で、お話をする機会に恵まれた。ただ、園児にではない。園児にしばらくの間、文字の話を聴いてもらうには一工夫いりそうだ。これまでに、中学生、高校生から九十過ぎの方までお話をする機会に恵まれてきたのだが、小学生もまた未知の世界だ。そこでは、幼稚園の父兄の方々がおいでになる。
お世話になった園なので、せめて恩返しにでもなればと準備する。お寺さんなので、仏教に関わることも入れておこう。子供たちのお芝居や卒園式などをビデオを持って観に行ったその会場で、お話しする機会が来るとはと、奇縁を感じた。
40人くらいで大人数というわけではないが、ほとんどがお母さんで、赤ちゃん連れもちらほら見られる。
自分自身が幼稚園児だった頃、初めて漢字を教わった日のことを微かに覚えている。まだ内湯がなかったため、母に連れられて近所の銭湯に通っていた。ある日、風呂屋の女湯で、母が湯気で曇った横長のガラスに、「一 二 三」と縦書きに指で書いて、これが漢字の「いち、に(い)、さんだよ」と教えてくれた。私は、「それじゃあ、4は「」だね」と言って書き加えた。
母は、そうではなく、もっと難しい字だいうところまでは説明してくれた。記憶の断片はそこで消えている。初めて漢字を知り、また「漢字って一体何なのだろう?」と不条理に思った時だった。学生たちに話すと、同じ経験を、ほかの子供たちもしているそうだ。
漢字に興味を持ってあれこれ見ていくうちに、中国の古文や金文、そして日本の文書などに、実際にそのように書く素朴な異体字も使われていた。日本では、「四」にこびりついた同音の「死」の連想を遠ざけようとする理由もあったと説明されることがある。
金文には、「五」までその方式があったと解読する人もいた。琉球では、独特な数字が編み出され、使用されていた時期があったが、もっと横線をたくさん書き、一目では何本あるのか分からないものもあった。さらに中国では、「万(萬)」という姓を書くように頼まれた者が、「一」を下へ下へと500本くらいまで重ねて書いたところで時間切れになって音を上げたという笑い話もあることを知った。
私は、今でこそ漢字について研究するという仕事をしているが、幼いころはむしろ文字が苦手なほうだったのかもしれない。
ひらがなを幼稚園で習った。鏡文字は起きたとしても自然と直ったようだが、その最初の「あ」が書けずに困った。下の方が何だかややこしそうで、どうなっているのか分からなかった。そもそも、いくつものことについて飲み込みの悪い子供だった。覚えてしまえば何のことはなくなるのだが、初めての話はなかなか耳に入らない(今でも色々と変わらない面がある)。
そこで、習得できていた「お」を転用するという妙案を子供ながらに思いついた。「お」を途中まで書く。最後の点を打たずに、下の膨らみの中に「ノ」を、なかば二重書きのようにして足しこむ。すると、「あ」のように一見見えるという算段だ。こうして、幼稚園の間じゅう、これを書くことでごまかして過ごしていた。
小学校に入っても、しばらくこれを続け、先生をあざむけたと、内心、変に得意にもなっていたように思う。ふと、書いてみたら難なく「あ」と書けたので、それからはこの記憶は長く封印された。
大学の教壇でも、「あ」をごまかして書いた上記の思い出を話してみると、同じ経験をもつと告白する学生が意外と現れ、ほっとする。また、出版社にもおいでになる。「あ」は最初に習う割にいちばん形が難しいと話す幼稚園の先生がいらした。たしかに結構複雑なのだ。ある学生は、「あ」「め」「ぬ」は万葉仮名まで戻れば「安」「女」「奴」で、どれも「女」から来ていると気付いたそうだ。ただこれを幼児の指導に持ち込むのは無理だ。漢字の「十」と「の」に分けて指導するなど、漢字まで持ち出す指導さえあるとか聞く。味気ないほどシンプルな字形をもつカタカナからまず教えるべきだ、というカタカナ先習論が今でも根強い一因となっている。