中国のテレビに戻ると、
胡志明市 芽庄
と、画面に映ったベトナムの地図で出てきた。前者はホーチミン市、つまり旧サイゴンだが、後者はどこだろう。南部の慶和(カインホア)省(Tỉnh Khánh Hòa)の「ニャチャン」だった。どことなく漢字音らしからぬ響きではあるが、この漢字のベトナム式の音読みだったのか。
俺
一人称だが、中国では方言に残っている。『水滸伝』で役者が用い、字幕に現れた。
娘
「niang2」、この字も字幕で出てきたが、おばさんが対象だった。
“嚼”
「かむ」という1語、1字だけを強調するような字幕も見られた。
繰り返し記号は、まず出てこない。「好好好」のように、口頭での発話には同じ漢字を3つでも4つでも並べる。ただし、日常の手書きとなると、「々」のような記号がほとんど2画の形で続け書きされるのである。
到底
中国では、日本と違って「ついに、そもそも、なんといっても」の意で、副詞であっても当然、漢字で書かれている。こうした文法機能の面からも表記に迷いの生じる日本語はやはり特異である。「千万」も副詞で「ぜひとも」の意であっても名詞であっても漢字だが、韓国語となると、すでに「どういたしまして」という意味で用いても、常にハングルでしか書かれなくなっている。日本のような表記選択の悩みは、ガラパゴス的な状況とも言える。
天気予報は、広い国土の都市の写真とともに、淡々と淀みなく早口で天気を告げていく。中央電視台の「欧陽智薇」という、印象に残っていた理知的な女性キャスターは、すでに別の人に替わっていた。
夕刻、日本との領土問題が報道されるさなか、白酒(パイジウ)でのカンペイ(ここでは乾杯は字義通り)の勧めには参った。屈すると許容量が違うために後悔することになるので、無粋ながら固辞し続ける。
香港の人に、早稲田大学の教育学部で1年間、学んだことがあるという人がいた。あの古めかしい建物の話がよく理解できる。香港には、丸顔で目が大きく、眼鏡を掛けた小さい人が多い、といえば紋切り型のイメージと非難されそうだ。実際にはこの人は大きめだった。
「有」から「=」を取り除いた「」(モウ 無いという意)のような方言字は、習うことがないとのことだ。どこで覚えるのかと聞くと、雑誌だそうだ。そんな雑誌は買ってはいけない、と先生に言われたが、それでも読むのだそうだ。香港や広東では、そうした方言漢字は手紙で覚える、という人もいる。怒るという意味の「嬲」(ナオ)について聞こうとしたところで、ほかの方がおいでになって尋ねそびれた。
かつて、香港映画の「モウマンタイ」は、「No probrem」の意で、北京語の「没有問題」が相当する。日本では「無問題」と表記されていたが、日本人の分かる漢字で「訓読み」させるのではなく、現地式にこの奇妙な方言漢字を用いていれば、別のインパクトを与えられたかもしれない。