せっかく飛行機にまで乗って土佐に旅立つのだから、地域の文字をたくさん調べてきたい。
「鵈」つまり「耳へんに鳥」という字が県内の小地名にあるのが気になる。一緒にと言ってくださる新聞社の方と話すが、やはり場所が遠すぎる。これには、なんとなく既視感があった。小著やメモを確認すると、すでに電話では調査をしてあった。この字体をもつ国字は、なぜか小地名にときどき現れる。JIS第2水準に入ったのも、「鵃」が一時的に変化したらしい怪しげな小地名からだった。さらに秋田にも「ときとうやぐらまつ」なる小地名の中に、この字が使われている。これは以前携わっていた電子政府関係の事業で、総務省などから資料を提供してもらい、それを元に現地へ行って、地元の資料で存在を確かめることができた。
「南国南支店」、南国高知らしい店の名前だ。地名の醸しだす雰囲気のとおり秋でも暖かだった。テレビでは、この「南国市」を濁らずに「なんこくし」と発音していた。固有名詞での西日本の連濁回避の傾向性と一致する。でも、当地のテレビでは、地元で「なんこく」のほか、「なんごく」と発音している人も映っていた。発音に揺れがあるのだろう。ここの「隅田」は「すみだ」と発音するようだ。
関東では、よく「茨城」は「いばらき」で、「いばらぎ」とは濁らないのだ、と目くじらを立てる人がおいでだ。「いばらぎ」は大阪の地名の「茨木」で、区別をしているのだともいう。正式には濁らないとされているが、これは一般的な「山崎」「中島」などの姓とは逆となっている。茨城でも、とくに北部では「いばらぎ」とも発音する人が少なくないそうで、伝統的な方言ではむしろそうなりそうだ。根拠が薄いのに規範意識がマスメディアによって強化されることがある。これが当てはまるかどうかは別として、指摘する自己が容易に高みに立った気分になれてしまうというのが、「正しい日本語」論の怖さだ。柳田国男も兵庫県出身、なるほど「やなきた」と濁らないそうだ。東京では「やなぎだくにお」でないと、一般には通りが悪い。
柳田の言うとおり日本列島は、その岬の隅々にまで人が行き着いて、そこで暮らしてきた。むろん人口密度は、平野部に集中しているが、山林もしばしば開拓され、山頂や半島まで、確かによく人が住んでいる。
高知では、空港から市内に向かうバスの中から、「大ソネ東」と電柱に記されているのが見えた。本来は「埇」つまり「土偏に俑の右」という字だろう。高知の地域文字がカタカナ表記されている。痩せ地という語義から見て「埆」(カク)という漢字から転じたものであろう。「埵」に作る地も県内にあるが、これも字義による地域訓か変形だろう。また、東北の宮城には「埣」(「土偏+卆」)といった漢字(字義にくわえ、ソツも発音が近い)が小地名に偏在し、姓などでは「曽根」「宗根」などの万葉仮名式の表記が各地に見られる。高知市内にも「高埇」(たかそね)がある。食指が動くが降りてまで寄るゆとりはなかった。「嶺北」(れいほく)は、この地にも見られた。福井だけではない。
電車からは、看板に「万々商店街」と見えた。電車やバスでは眠ってしまうこともあるが、これはもったいない。たまたま線路が引かれた場所に過ぎないといった背景はあるのだが、それも地元の文字生活の一部を形成しているはずだ。車窓へと入る日射しが眩しい。しかし、カーテンを閉めると観察ができず、写真も撮れなくなってしまうので、ここは耐える。
バス停にも「万々」があった。この「まま」という語は、東日本では『万葉集』の時代から「真間」などと漢字を当てて使われている方言で、崖や斜面を表す。『国字の位相と展開』に書いたとおり、山形で「圸」、相模で「壗」、伊豆では「墹」など、地域ごとに国字が作られてきた。先の「万々商店街」には、少し離れて山があった。川も流れていた。これらと同義なのだろうか。西日本にも「まま」地名はなくはないが、「継」「飯」など、表記自体に別の意味を感じさせるものが目立つ。表記された時代に意識されていた語義が反映している可能性がある。