漢字の現在

第175回 朝鮮半島の古文献の漢字

筆者:
2012年4月10日

結局、ハングルといくらかのローマ字、アラビア数字に囲まれた韓国滞在中で、いちばん漢字が多く現れたのは、その漢字について考える大学での研究会の要旨集であった。あとは、中国から招かれた方がその会で示されたパワーポイントも、中国語だけに漢字が大量に現れた。それらの発表を聞いて、その後になって気になった文字について、いくつか記そう。

 (糸+口) 音口 俗呼紐子(糸+口)兒 「松澗貳録」

この漢字は、『大漢和辞典』においては、「コウ k’ou4 現 ボタン。ボタンを締める。」「釦」に同じ、とあるだけの不思議な字だったが、こうして漢字圏から用例が発掘されることは素晴らしい。


610年の新羅の文献に「畠」が現れたとある。これについては、かつて「朝日新聞」に写真入りで「畠」が古代朝鮮の資料で発見されたという記事があったが、その写真を見たら、どうも2字にしか見えなかった、あれを指すのだろうか。韓国の固有漢字を研究されている先生も、やはり2字だと見ていらした。「白田」は2字ともに元々小さめに書かれやすい字であり、それが中国で早くに熟語化していたので、くっつきやすかった。つまり合字化しやすい条件をもっていたことは確かだ。

文字に関しては、資料の多く残っている近代はもちろん、今生きている現代のことすら分からないことに悩まされる。古代のことはなおさら杳として分からないことが多い。この「畠」という字は、奈良時代に日本に現れるが、中国産の漢字という説が歴代、たしか平安、室町、江戸と3回は文献に現れており(「皇」の異体字「(白×由)」との混同も含む)、4度目の正直、ともならなかったと思うが、いかがだろう。

家の敷地を意味する「垈」(dae テ)が1426年の文書に現れるとある。これは漢字圏各国で独自に創られた字体であり、日本の山梨の「垈」(ぬた)よりも古そうだが、中国の元代ころの用例よりはやや新しそうだ。

日本の国訓とされる「椋」(くら)に関連しそうな字も触れられていた。「土+完」は年代未詳とあるが、日本の古代との関連が気になる。「魵」が韓国の「国義」とされているのは、字義は何だろう。エビではないのだろうが、北朝鮮で刊行された研究書から引かれているので、読めるだろうか。「王」を「森」のように3つ重ねた字は「聖」の異体字、「イ+天」は「佛」(仏)の異体字で、ともに近世の中国から漢字圏に広く拡散したものだ。中国の新字がベトナムや日本を含め各国の固有漢字と混同されて理解されてしまっている現状が思い起こされる。韓国の固有漢字に関する論文も文献に挙がっている。帰国していた留学生に頼んでコピーをもらえた。実証的な研究が進展しつつあることがうかがえる。

いただいた紀要にも、漢字ハングル交じりの文章も散見される。漢字は( )内に併記したものもある。法律で、漢字使用は規制されているはずだが、これらは例外なのだろうか。

ただ漢語のどこまでを漢字にするかは、新聞や論文であっても気まぐれに見えることがある。一つの語であっても、1回目の使用はハングル、2回目は漢字だけなど、ランダムにも見える。漢語かどうかの意識や知識にもよって濃淡も生じている。

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(画像クリックで周辺を含め拡大表示)

【 久しぶりに見たトンパ文字(ソウル市内で)】

昼食を韓国語ではなんと「点心」と言う。読みはチョムシムのようになる。その会食の時には、新羅文書にある「丑二石」の「丑」は日本の国字とされる「籾」ではとの話が出た。韓国ではすでにその説がほとんど認められているという。確かに「籾」は古くは「米+丑」であり、中国の雑穀米のような意味とは異なるモミの意で、日本では古くから使われている。「丑」と「刃」との交替は中国にも起こる。それによって「刃」のように尖っている、という会意化が進んだものだろうか。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。