漢字の現在

第185回 「勉強」の共通誤字

筆者:
2012年5月15日

合宿の食事時、温泉玉子と千切りのキャベツが並んだ。我が家で、溶いた温泉玉子の容器の中に、キャベツの千切りを箸から落としてしまったことがある。子供にさえ「あ~あ」と言われる始末。仕方ないのでそのまま食べてみたら、実に美味だ。2品の取り合わせが合うのだ。温泉玉子がキャベツをコートして、触感を滑らかにしておいしくすることにそのようにして気付いていたので、そこでも言ってみる。「悔しいけど旨い」と男子。女子たちも真似して、びっくりしている。チーズや紅茶の起源だって、伝えられるところでは失敗からだそうではないか。

合宿では、勉強のほかに参加者同士の親睦も大切だ。ことばに関するお題を出して、優秀なグループには景品として、懐かしい昭和らしい麩菓子を授与する。工場見学もさせていただいた日本最大の「工場」で作られている逸品だ。ここまで崩れないように運ぶのが大変だったが、かぶりついては意外に美味しいと喜び、もらえなかった班も羨ましがる。最後には残りを皆に配って、この歯応えと風味、そして栄養と色彩に満ちた菓子の広告を作るならば、と考えてみた。


合宿所にはそういうことができる教室もある。ゼミ生同士で、「キズナってこんな字?」、「絆」とホワイトボードに書いている。文明の利器と呼ぶケータイから覚えたものだろうか。

伝言ゲームは、言語の変化の縮図でもあり、考えさせる点を含んでいる。広い屋外でやったときには、一時記憶の限界を感じて泡を吹いたものだ。面白そうだが、ただ、室内ではどうしてもよそのグループの発音が聞こえてしまう。

印刷術の発達していなかった昔は、文字は手で書き写して伝えるものだった。写本では、場面(急ぎか、意識が集中しているかを含め)、個人の識字力や使用文字をほぼ等しくする集団の状況によって、元の文字は変わっていった。幕府から出されたお触れなども、市井の末端ではある程度は変容をきたしていたそうだ。音声言語でも、一斉メールなどの手段がなかった頃には、クラスなどに連絡網が設けられ、伝達が繰り返されていたが、最後の人が発信者である教員に念のため電話を入れて確認すると、どこかで集合時刻やら何やらがおかしくなってしまっていた、なんて騒動も耳にしたことがあった。それを競技のようにしたのが、伝言ゲームだったのだろう。

「勉強」と書こうとして、その1字目を「勉(力はム)」とホワイトボードに書き間違えている学生が前日にいたのにもインスパイアーされた。女子がヒソヒソと小声で「力だよね」、「違っている」、私に言いに来た人もいた。書いた当人に確かめると、「勉学」でも、「つとむ」という名でも同じ字だという、でも「アレ?」というので、彼にとって臨時的な字体ではなさそうだ。

「間違ってんの?」と聞き、考えて「力」だと気付く。なにか変だなと思いながら書いていたそうだ。自分でも、どこかおかしいと思っていたとのこと。何かを省略しているのか、と考え、「どうしてだろう」と不思議がるので、「鬼」からでは、というと、「鬼」と書き、さらに左に「云」を加え「魂」と書いてみていた。隣の男子が「勉」のほうが先に習うという。もしかしたら、本で印象深く目に入っていただけでなく、次に熟語でよくくる「強」の「ム」が影響したもの(部分字体に生じる逆行同化)なのでは、と指摘してみる。

隣の男子も、実は中学生の時にその字体を注意されて気付いて、「俺だけかと墓場へ持っていこう」とまで思っていたそうだ。こうした呟きからも、共通誤字といえそうだと感じる。それが、新しいゲームを思いつくヒントになったというと、次の日にこうして使われることまで「見越して」、あれをと書いたものだったと話す。これは言い訳っぽく聞こえず、なかなか回転が速い。

「魅力」も逆行同化を起こしやすい。「力が入る」のだ。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。