漢字の現在

第243回 岡山の「嵶」と「穝」(さい)

筆者:
2012年12月4日

女子高生たちが電車内で話しているのが耳に入った。

「そうじゃろ」

「よかろう?」

岡山を出て久しい女子学生も、都内でときどき地元のこうしたことばが口から自然に出て、周りの友達を驚かせていた。このどこか重厚な語感を伴う方言が、かねてより文芸作品、昔話や漫画、アニメなどの中で、特定のキャラクターと結びつけられてしまった。それがいわゆる役割語として注目されているものだ。老人や博士の口調として認識されてしまっている。

吉備は、黍がたくさん穫れたところから付けられた国名ともいわれ、桃太郎伝説の地として知られる。この中国地方は山陽の地で、街中で目に入るエビは「えび」、「海老芋」であって、もちろん「蛯」は見かけない。

「ままかり」をいただく。俗に「名物にうまいものなし」ともいうが、これはおいしい。ただ、後で聞くと地元の人は実は余り食べないものだそうだ。店のメニューには、「肉鍋」「肉丼」というものもある。さすがは西日本だ、「肉」といえばまずは牛なのだろう。肉まんのことを「豚まん」という理由もここにあった。倉敷は、落ち着きのある町で、夜は子供のころのほの暗い街路を思い出させてくれた。

長い区間を走る路線バスに乗り込む。「扇の嵶入口」という「たわ」に「嵶」を用いたバス停があったため、そこを目指してみたのだ。「次は、」とのテープのアナウンスと電光掲示に、他の乗客たちも「へ~」、「山が弱いと書いて」、「襞みたいになっているところ」とひとしきり話題にしている。しかし、そこで降りた人は私だけで、次のバスは当分来ない。山の大きなトンネルの入口に、確かにその字が使われていた。そして向かいには瀬戸内海が広がる。瀬戸大橋が四国へ向けて架かっている。

県内では、山中にも、「嵶」という地があるので行ってみた。くねった登り道で、畑仕事に精を出す老夫婦がいた。その地がどこなのか尋ねてみると、野良仕事で握りしめていた包丁をそのままブンと振り回して、朗らかに方角を指しながら教えてくれた。民家に「物部」と表札にあるのも、さすがはこの地だと思わせる。わずかながらその地名の書かれた紙と、地名に関する意識のうかがえる話を採取できた。

穝・嵶

岡山市穝(さい)、穝東町(さいひがしまち)の「穝」は音読みで形声式の珍しいタイプの国字であり、地名ではここでしか使われていない。JIS漢字には、辞書にある木偏に「最」という別の漢字に変わって採用されてしまった。既存の辞書にある字に直された結果かもしれない。そのミスによって、JISの補助漢字(JIS X 0212 1990)や第3水準(JIS X 0213 2000)が制定されて、改めてこの字をきちんとした字体で採用するまで、長らくパソコンでは打てなくなってしまっていた。そこを歩いて調査をしてみたときには、同じ岡山市民でさえ知らない人が多いこの字だが、現地では当然のように使われていた。真新しいコーポの名前としても、あちこちで堂々と掲げられていて、生活に溶け込んだ文字となっている。ときどき木偏になった「樶」などとなった誤字もあるが、パソコンのいたずらもあるのだろう。

姓には「税所」「最所」で「さいしょ」と読ませるものがあり、この両者の読みやすさと字義の表出を求めていいとこ取りしたものがこの地域文字ではなかろうか。岡山には、国字の「働」で「かせぎ」と読ませる地名もある。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。