日本の文字は、地域差に限らず、実は前回述べたような重層的な構造をそもそももっている。漢字という文字は、要素(字源としては、いわゆる六書でいう象形、指事、会意、形声を含む)と運用(六書でいう仮借、転注を含む)とに切り分けがたい面もある。
本義つまりその漢字が作られた当初の字義には、実際の使用例が確認できないほど古いものもある。つまり転用された字義といっても、実証的にはそれが事実上の本義と認めざるをえないものさえもあるのだ。殷代に巫たちが本義や字源をどこまで正確に理解したうえで甲骨に字を刻んでいたのか、確証はない。
そこには、使用の実績から、さまざまなニュアンスも帯びるようになっていく。
それらが幾重にも折り重なっているため、日本における文字や表記の多様性は、世界でも他の文字の追随を許さないほどのもの、随一のものとなっているのだが、そこにさらに文字・表記の使用者の社会的な属性、層による違いが加わるのである。老若男女だけではない。そして年代差は、通時的な観点を加えるならば、時代差が大いに関わっている。漢字は、共時的に捕捉するばあいにも、本来は、昔は、といった意識と知識が大いに影響する文字である。
年代差
性差
階層差
職業差
嗜好差
ここに、
地域差
を位置づけることが可能となる。人間と地域と漢字は、こうしてむすびつく。
そして、地域差はさらにまた年代差、性差、職業差などとも深く関わりつつ、自身に濃淡を生み出しているのである。たとえば「潟」の略字も、各地で地元の若年層にはあまり引き継がれなくなってきており、いわば標準字化、共通字化が確認される。
筆跡を見る人たちの中には、ここに性格の差などまで見出すことさえある。
位相といった場合には、次の観点も加えられる。
場面差
同じ使用者でも、文字や表記には場面による違いが生じうる。たとえば公私の別、読み手への配慮や待遇の有無、美が求められるか実用が勝るか、急ぎか急を要さないか、筆記素材や使用メディアは何か、時刻や季節はいつか、といった様式、環境などの諸条件によって、物理的にも、生理的にも、心理的にも(意識も)、変わりうるのである。
ここにも通時的な観点を加えれば、個人にも時代差は生じる。手書きで全く同じ字形を二度と再現できないことはもちろんだ。それ以上の変遷、つまり小さな日本語文字史を各人が抱えていることは、小学生や高校生の頃の筆記の跡をひもとけば明らかであろう。
そして、読む側にも、こうした諸点は関わってくる。日本語の文字・表記の多様性と一口に言っても、何次元にもわたるこうした複雑な様態が含まれているのである。これに対して、中国や韓国、アメリカなどの文字や、文字生活での言語行動の状況に見られる厚みは、いかほどであろうか。
さて、分類ばかりを示してきたが、観察される具体的な例を最後に示しておこう。和食の代表であるスシに、4種類もの表記が同居している店先があった。「すし」「寿し」(縦書きでかつて生じた「し」の抱き込みが応用されている)「寿司」「鮨」だ。これには、先述した要因が絡まり合っていることがうかがえる。そして実は東京らしい現象ともいえる。なぜか、これだけあっても伝統ある近畿の「鮓」は使われていないのだ。全国の店名でのこれらの文字・表記の分布は、『方言漢字』に示したとおりであり、「鮓」は今、関西らしさをもたらす字となっていると見ることができる。