車内から「ようこそ立山へ」という看板が目に入る。岩峅寺に着く。いよいよ古来の立山信仰の地に至った。さまざまな文献で繰り返し見てきた「船峅」は富山市内だったが、「岩峅野」はこの辺りに、そして「芦峅寺」の地や「(女+田3)堂」(姥堂)なども、この先にあるのだろう。これより向こうに、幼い頃に乗って行ったかと思われる立山黒部アルペンルートが続く。クラは、神の座の意らしく、各地で漢字表記に工夫が見られる。
この辺りでは、中世以来、文書や辞書などに収められ、「山」の下に「辨」を置いた神々しいような異体字まで派生した。剣岳だってあえてその厳めしさを感じられるようにと「剱岳」を選んだのもこの富山の人々だ。急いで駅標を撮るが、ここまでの道程が思いのほか遠かったため、時間が心配になる。駅員に聞くと、どうもぎりぎりそうだ(ここでも正確な時刻は聞かれなかった)。ということで、切符を買えずにそのまま別のホームに止まっている出発間際の車両に乗るように勧められる。
間に合わなかったとはいえ、もとの駅でいずれ精算するのに、地域文字が印刷された駅名入りの切符をもらわなかったのは、資料をみすみす見逃したわけで悔やまれた(あとで地元のゼミ生についでのときにお願いすることにしよう)。そうして飛び乗った電車は、車内がどんどん熱くなる。単線だが、行きとは別のルートとなり、景色も駅名もまた新鮮だ。女子高生たちも座っているが、車内は静かである。「開発」と書いて「かいほつ」駅、富山出身のこの姓の人がだいぶ前に教え子にいたことを思い出す。新田開発の名残なのだろう。
何とか無事に間にあった。駅の周りを回った後、北陸本線に乗って、越中から越後へ、越後も上越、中越を経て下越まで行く。日本の一大穀倉地帯であり、越後平野も思いのほか広い。糸魚川、そこに出張などで行った人が糸魚川という川を見たと話すことがあるそうだ。そこを流れる姫川のことをそれと勘違いしたのか、それとも、本当に寄ったのだろうか。直江津も懐かしい駅名だが、かの直江兼続の直江と関わるとは幼い頃知らなかった。もちろん名も知れぬ人々の永い営みの積み重ねがあって、現在のその地がある。富山駅から新潟駅まで3時間を要した。
この日は、電車に合計で8時間は乗っていた。途中、直江津の手前で車内灯が一斉に消える。その後、「電源切り替えのため」との放送があった。交流と直流の切り替えの区間を惰性で辷る列車内は、いっそう静まりかえる。目を通していた予稿集が読めなくなる。新幹線は、電源をずーっと引っ張っていると聞くが、ここはそうではなかった。ちなみに富山側は北陸電力の地で60ヘルツ、子供のころは持ってきた時計がずれたものだ。この辺りでは「西日本旅客鉄道」などの「西」という字と、「北日本新聞」(きたにっぽんしんぶん)などの「北」という字とが、この地を指す方角として入り交じっている。乗務員も、どこからだったかJR西日本の車掌に変わっている。強風でときどき列車が止まるので、約束時刻に少し遅れてしまいそうだ。
どんよりとした鉛色の空と日本海に沿った北陸本線は、特急なのに車内は寒い。11月だからなのだろう。先の電鉄は、熱かった。帰京後に、立山の高校への通学に使っていたという女子学生に聞くと、確かに熱かったと言う。岩峅寺に祖父母が住むという学生によれば、お年寄りが多いためかとの話だ。
新潟に向かうこの電車には長く乗るため、駅前で見慣れぬコンビニに入って、鱒ずしのおにぎりを1つだけ買って持ち込んでいた。東京都内のコンビニでも見られるようになったそれよりも少し高価だが、それだけのことはある。大事なそれを開くと、鱒の肉が厚めで、ほどよい渋みもある。米はやはり重く、滋味がある。都内では、この「鱒」を読めない学生がいた。