新潟に着く。富山とはだいぶ街の雰囲気が異なっていた。新潟の方々と落ち合う。
新潟の糸魚川出身の方が言うには、娘さんの遠足の資料を見ていたら、佐渡のバス停には、漢字検定1級合格のその方でも見たことのない漢字や読めないものがたくさんあったとのことだ。ぜひ行ってみたいと願っている(ただ海を渡る手段は小型機かフェリーしかないそうだが)。佐渡が地元で同じく1級合格者の方は、「蚫」という行政地名が全国でここだけということに驚いていた。「(石+車)」で「がためき」もご存じなかった。実際に地域に特徴的な文字というのは、現地ではおおむねそういう存在であって、身近すぎれば空気のように当たり前になってしまい、固有名詞らしくその意味や意義を考えることもなくなる。集団文字にも同様の性質を見ることがある。
この地では、さすがに地酒の「〆張鶴」をよく目にする。富山ではご当地の「昆布(こぶ)〆」もあった。東京では「メ」や「×」、さらには「α」のようにさえなってしまう「〆」も慣れた字形で書かれている。日本酒には、その地の特産の銘柄がたくさんあって、ついつい雰囲気にも呑まれてしまうのだが、翌日のことも考えて自制し、控えめに抑えている。学生時代のつらい経験は、決して無駄ではなかった。
名前をテーマとしてお話をする。いわゆるキラキラネームは、人によって範囲が異なる。地方紙には「うぶごえ」などの欄が残っており、そうした面には目立つことも指摘されている。全国紙には、報道でたまたま現れる程度になった。とくに悲惨な事件・事故のときに目につくことがあり、心が痛む。
伝統的な名前や文字に関する知識の多いほうが眉を顰めたり、読みに悩まされるという構図ができつつあるようだ。名付けで過去の当て字の実勢を顧みることなく、あまり深く考えなかったような人が周囲の他者は読めないと困り、そして当人さえもまたあれこれと悩み込むという結果さえ生みかねない負の連鎖が生じてしまっている。当人と周りの将来を想像する力が問われているのではなかろうか。むろん、覚えやすかったり目立ったりということがプラスに働くケースもあるので難しいところだが。
さて、少なくともこちらでは名前で、「いろは」ちゃんが流行っているそうだ。漢字のものもあるとのこと、「色葉、伊呂波、以呂波」などの付く辞書名を思い出す。「花音」でカノンのような、「観音」などの連声形から「ノン」を切り出した命名は、若年層では違和感が感じられなくなっている。接触頻度が1つでもあると、認める傾向があるようで、芸能人の影響も大きい。学生のお父さんお母さんの世代では、まだ抵抗が強いようだ。気になるという人は、「観音」に生じた連声形という知識が規範意識につながるためであって、さらに名乗り音だという認定を情報として追加しないといけなくなる。そうすると、観音寺(かんおんじ)という地では、抵抗感が強いのかもしれない。
あたかも何も知らないように、慣用音のように受け入れて使っていることにも、常識や教養が…と違和感をいだく向きがあるのだろう。「佳」をケイとするのは、漢音の一つとして認める辞書もあるのだが、「絢」をジュンとする類推読み(昔は百姓読みなどと呼んだ)も著名人にも見かけ、名乗り訓ならぬ名乗り音として定着を見ている。怒る立場と、実情を認めて知識を追加しなければならない立場と、何も知らずに受け入れる立場と、どれが気楽だろうか。
その場では、もっと悲劇的な話と、もっと楽しい話をたくさん織り交ぜてみた。事実は小説よりも面白いが、名前はまだ可能性を秘めている。楽しいと思ったことを話すから、聞く方も楽しいとおっしゃってくださった。伝えたいことは全部伝えられただろうか。楽しそうに語ってしまうと逆に、ということもあるので、間合いも必要のようだ。ともあれ、漢字というものは、人を悩ませながら楽しませる、もの凄い文字である