富山で感じた木を燻したような空気の匂いは、幼いころにそこの家の中で何度もかいだ懐かしいものであった。駅から路線バスまでの道のりが書かれた案内を家に置いてきてしまった。人の流れに沿って行くと、知っている方を見かけた。話せば、院生時代の発表のことまでよく覚えてくださっていた。いつしか四半世紀ほどが過ぎていた。それに比べて心の中はあまり変わっていない。市内を走る面白そうな路面電車のようなものに気が引かれたが、終点まで乗っていったところ、港で土産物店以外は皆店を閉じていたとのこと、行かなくて良いかと思う。
学会会場に着く。誰もが自分の役目とされた仕事をきっちりとしているように映る。宿泊調査票を、と渡されそうになるが、今回は出張ではなく夜は新潟にいかないといけないので申し訳なかった。
コクヨが建てたと忙しそうに走る会場校の方が教えて下さった施設はたしかに立派だ。「国誉」という表記もかつて見たことがあった。創業者が、越中国の誉れとなるように付けたのだそうで、ここも富山らしい。
発表を聞いて、バス停にいると今度は先輩の先生にお会いする。そのまま、駅に出ると、「電鉄」が気になる。富山地方鉄道、電鉄富山ということのようで、「地鉄」(ちてつ むろん地下鉄のことではない)というのと同じものとは気づかなかった。ふらっと駅に入ると、「岩峅寺」の駅名が目に入った。さっき、そういえばお婆さんの会話に「いわくら」と出て来ていた。
小さなホームに停まっている車体正面の上部の掲示にも「岩峅寺」行きとある。立山にある地のはずだが、意外と近そうだ。これは時間的にみて寄れるかもしれない。駅員に確認するも、正確な発車時刻などを誰も言ってくれないのが東京と違う。北陸本線を走る特急の出発時刻までには戻ってこられそうなので、飛び乗る。切符にも、地域文字の「峅」がきちんと印刷されている。昔は、こういう硬い切符が、駅に備え付けられていて、駅員によってはどこでも駅名を暗記しているかのようで、さっと指で引っ張り出していたのを覚えている。鋏を素早くうまく入れるのも技能だった。切符のコレクションをしていた方々の気持ちもよく分かる。
乗り込んで座ると、また知っている優しい声が。なにかなと振り返ると、まさかのかつての上司の方だった。当てどなくふらりと乗るのが私だけでないことに、少し嬉しくなる。言わずとも「あの文字を見に」と、さすがに微意をご理解くださる。途中の「五百石」という、なにやら雰囲気もよさげな駅で下車された。「岩峅寺方面」との大きな看板とともに、車窓よりお見送りをさせていただいた。ローカル線に乗っていると見知らぬ地名が楽しみである。修善寺近くでは「原木」を「ばらき」と読むような駅名に出会えた(原木中山は都心への通勤圏)。「岩原」(いわっぱら)は、スキー場として有名で、「原」という字がいかに親しまれていたががうかがえる。
出発駅では「釜ヶ渕」と見たものが、車内の電光掲示板と駅標では「釜ヶ淵」となっている。正式にはいわゆる正字なのだろうが、生活上はどちらでもよさそうだ。
冷たい空気に、車内の暖房がありがたい。「しゃぼん」というロゴのような字が書かれた看板が目に入る。「し」が「之」の崩し字からという由来を示すかのように「丶」が上に残っている。この地で生まれた母の戸籍でも、「じ」はそのようになっていた(本人はアラ、そう?と気づいておらず、実家に掲げられた賞状でも「当て字」のほかにこれがあったような記憶がある。戸籍では一時、「じ」に変わったり、後から点を書き加えたりされていた)。ほかでも市内のバスの中の掲示で見かけた。後で、隣の新潟で頂戴した缶入りの日本酒の菊水の容器に「一番(上に点のついた「し」)ぼり」と、この字が筆風の字で印刷されていた。古風な字形が、東京よりも残っているように思われる。