漢字の現在

第277回 中国の手書き字形

筆者:
2013年7月15日

北京で、人に肩がぶつかったりすると、「没関係」(メイクアンシ)、「没事児」(メイシャール)とサッと言うのを聞くと、かっこよく感じる。

韓国では、「クェンチャナヨ」というが、実は部分的に語源を等しくする。バイリンガルの案内をしてくれた彼女は、互いを別個に頭の中に入れていて、たどると「関」の字音に行き着くというつながりを知らなかったそうだ。北では、「イロプタ」(事がない)という直訳のような句があり、こちらの朝鮮族でも使用が生じているそうだ。

案内をしてくれている韓国系中国人の彼女は、商店が並ぶ「琉璃厰」(リウリーチャン)について、「琉璃」(liu2li4)はガラスではないという。ガラスは「ボーリ」(玻璃)でしょ、と言う。リウリーは中国語では宝玉も指し、そのとおりなのだが、元をたどってみよう。「韓国語では、ガラスを「ユリ」っていうでしょう、それと同じ漢字だった(「瑠・琉」は通じた)」というと、そうか、韓国語のそれが、この漢字とは知らなかった、と意外がっていた。

他のバイリンガルの人に、「餅(もち)」と「餅(bing3)」とを別々に絵に描いてもらうと、日本風の糯米を焼いたおもちないし鏡もち、お供えもちと、麦でできた薄くて円いもち(ビン)とが現れる。当人も、頭の中がどうなっているのかと驚く。「絵に描いた餅」「画餅」ということばのイメージは、『漢字の現在』にまとめたように日中韓でまるで異なっているのであり、それが脳裡で同居(別居というべきか)しているのである。

中国の人たちの漢字の書き方を見ていると、筆順は意外と自己流のばあいが多々ある。日本でも、研究者であってもそれは見られるのだが、意外な筆順でさらっと書くところが面白い。また、「必」の字では、中国からの留学生は、

 「心」を書いてから「ノ」と習った。
  「心」の最後の「丶」の前に「ノ」と習った。

など、分かれる。中国は広大なので、何事も経験談がまちまちになるものなのだが、これは規範化が行われる前の状況を反映しているのだろう。筆順については、国家の標準の前に、北京市が標準を示していたくらいで、公的とされた筆順や習慣的な筆順には、地域差もあった可能性すらある。こうした点に、日本とは違った意味での多様性が見いだせよう。


「鳥」は、「ノ」「フはねる」と書き始めた。聞けば、さすが、崩し字の順だという。今では規範は国家が作っているが、どうなっていたろうか。

私は、日本の「鳥」の影響で、簡体字だって「ノ」「|」と書き上げていく。これは今では日本式なのかもしれない。

「門」の繁体字も、中国人の筆跡とすぐに分かる。「ヨ」から書くかどうかはともかく、とくに右がわを「乙」から書いて、続いて中の「一」を埋めて「|」で仕上げるようなのだ(門の繁体字)。「乙」のような「匚」の形状と、右上が切れている字形は、日本ではかなり稀である。

「門」の簡体字も、「|」から「丶」へと書いている。実は私も大学1年生以来そうだった。新たに策定された国家による筆順規範では、点からとなった。当時の教え方は、違ったのかもしれない。彼女は、子供の時、何度もやったが(練習したが)、と述べた。

「長」の簡体字も草書に由来する2筆で書けそうなもので、中国語の時間に習って感激したものであるが、私はこうと、「一」から書いて、「|」を書いてはね、最後に大きく「く」と、独特だった。それが書きやすい、速く書けるからという。崩し字からできた簡体字に、さらに新しい字形が生じていた。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。