漢字の現在

第287回 済州島で見たフォントの字体

筆者:
2014年2月24日

済州島を巡るバスの車内モニターに映った動画に、「城邑」と出た。この地名では、「邑」という字がきちんと意味を持っているようだ。この島にも民俗村が設けられていた。バスは雰囲気だけを動画で流して、そこを通過する。

島の名前である「済州島」と、行政区画としての「済州道」とは、韓国語では同音となり(細かくは道の方が母音が伸びるが、長短の区別も失われつつある)、ハングル表記でも区別を失う。文章中においても、文脈で必ず区別できるとは限らない。

済州島でもらった日本語の名刺には、明朝体で「市」や「許」の1画目が縦線や横棒ではなく点、「内」という字は旧字体となっていた。

「冬蟲夏草」「濟州道(しんにょうの点は1つ) 西歸浦市」ともあり、繁体字が多いが、「口座番号」の4字目は簡体字(略字・新字体)である。裏面を見ると、そこには「領收證」、「上のよう  丹を領收します.」とある。日本式略字の「円」はこの地では見慣れず、あるいは活字リストに見つけられず、形が似ている「丹」を入れたのだろう。

教育関係の方々と交わした名刺には、中国や台湾の人向けなのか、康煕字典体の漢字が目立つ。「教(十をメ 旧)授(ツは下に開く 旧)」と印刷している韓国の人もいらした。「ソウル」やアパート名の部分は、ハングル表記だけという人もいらした。

中国人でも、「鄭(続け字)州大学」と繁体字で印刷された名刺を渡して下さる人がいた。ロゴだろうか、標準的な字体として法律で定められている簡体字ではない。

若い韓国人女性の名前に「孝順」があった。儒教的で、良い家のお嬢さんなのだそうだ。日本でも、昔ながらの「子」のつく女性は、成績がよい、虫歯が少ないといった調査結果を目にしたことがあるが、こうしたことを断定するためには、相当な規模の標本が必要なのだろう。

奥さんが名刺を管理しているという中国の先生もいらした。訛りが強い中国人女性だった。そして漢字など知らなくても、中国語を話せる人は、中国にはたくさんいる。

五つの味が混じり合った五味子茶の箱には、「茶(くさかんむりは十十)」が教科書体と古印体のような書体で、ハンコのように印刷されていた。日本人向けに、ゴシック体で「長時間熟成’発酵させたお茶で(改行),」などとある。改行の禁則が働いていないうえに、「,」を「’」と間違えて入れてしまった誤植が目に付く。

「漢方」の「漢」と、「高級」の「級」が旧字体となっているのは、字体の細部については妥協した結果だろうか。日本でも意図的かどうかはともかく同様の代用行為は見られ、IVSなどが実現するとは思えなかった時期、JIS用語では「包摂」と呼ばれたものだった。

「飲用方法」が明朝体で記された紙には、「飮み方法」「飲んで」「飲ん下さい」(ママ)と、JIS漢字の不統一に起因するような新旧字体の両用が見られる。日本語の印刷では珍しい韓国語風な分かち書きも、ところどころに施されている。そうした外国人による表記は、日本語の文字をコントロールすることの難しさをよく表している。そのような文字に関する不備とはうらはらに、このお茶はさっぱりと甘めでおいしい。


簡体字の中では、「平(旧)」が明朝体・ゴシック体で現れている。日本では平凡社の社名でお馴染みのそれである。ゴシック体の「麗」は簡体字になっているが、なぜか「(麗-鹿)(麗-鹿)」と線が切れて設計されてしまっている。これも韓国で出回っているフォントのいたずらの一つだろうか。

筆者プロフィール

笹原 宏之 ( ささはら・ひろゆき)

早稲田大学 社会科学総合学術院 教授。博士(文学)。日本のことばと文字について、様々な方面から調査・考察を行う。早稲田大学 第一文学部(中国文学専修)を卒業、同大学院文学研究科を修了し、文化女子大学 専任講師、国立国語研究所 主任研究官などを務めた。経済産業省の「JIS漢字」、法務省の「人名用漢字」、文部科学省の「常用漢字」などの制定・改正に携わる。2007年度 金田一京助博士記念賞を受賞。著書に、『日本の漢字』(岩波新書)、『国字の位相と展開』、この連載がもととなった『漢字の現在』(以上2点 三省堂)、『訓読みのはなし 漢字文化圏の中の日本語』(光文社新書)、『日本人と漢字』(集英社インターナショナル)、編著に『当て字・当て読み 漢字表現辞典』(三省堂)などがある。『漢字の現在』は『漢字的現在』として中国語版が刊行された。最新刊は、『謎の漢字 由来と変遷を調べてみれば』(中公新書)。

『国字の位相と展開』 『漢字の現在 リアルな文字生活と日本語』

編集部から

漢字、特に国字についての体系的な研究をおこなっている笹原宏之先生から、身のまわりの「漢字」をめぐるあんなことやこんなことを「漢字の現在」と題してご紹介いただいております。