ここ済州島は、奇しくもアワビの名産地であるという。発表するテーマも、たまたまアワビを意味する「蚫」の国字・国訓説、「鮑」の国訓説に対して、日・中・韓の各種の古代文字資料を用いて、新たな疑問を呈するというものにしていた。
予稿が長くなったので、発表で話す箇所を絞らないといけない。中国語部分でも同様にしておかないと、うまく通訳してもらえないだろう。データも持っていかないといけないし、通訳して下さる先生とも事前に相談しておかないと、と気が急く。
日本では、「鮑」か「蚫」という1字を訓読みでアワビと読ませるが、ひらがな・カタカナでも表記されている。寿司や中華料理の品書きでは「鮑」が優勢か。韓国では「全鰒」(チョンボク)という漢語らしき語をもっぱらハングルで書くようになっている。古くは「全卜」などとも表記されており、いずれか、あるいはいずれもが同音字による当て字なのかもしれない。中国語圏では「鮑魚」(バオユイ)と書かれる。
済州島の食堂で出たスープにも、小さめのアワビがいくつも入っていた。アワビの子供かと思うほど、どれも小さい。江戸時代にも、アワビとトコブシはどう違うのかという同定に関する議論がなされていた。今では、貝殻の穴の数が5個以下のものはアワビ、6個以上はトコブシなどと規定されているようだ。4-5個と6-8個と、倍くらい違うのだともいう。スープの中に沈む貝を見る限り、穴は3つくらいだろうか(帰国後には、同じ頃にこの島にたまたま来ていたという人から、大きいアワビも食べたと聞いた)。
先週の「串」という字に関する発表も、北京で聞いて下さっていた中国、台湾や韓国の方が何人もここにおいでになっていた。その最初の発表を覚えていて、話しかけてくださる。「串鮑」という食品もあったくらいで、何かとご縁を感じる。訴えかけた研究成果が国境まで越えて、異国の漢字研究者の心に届いたとすると、素直に嬉しく思う。
いろいろなことがつながってくるのが漢字の面白いところだ。直前に「日本経済新聞」に「蚫」の字のことが取り上げてもらえたのも全くの偶然だったが、それを通訳を担当くださる方が人から教えられて読んでくださっていた、ということもそこで知った。
今回は、せっかくの韓国ではあるが焼き肉は、なしだ。済州島まで来ると、食文化も人柄もだいぶ韓国本土とは違っていた。
移動のための団体バス車内のモニターの画面に、今度は「渉(旧字体)地岬」と表示された。そして岬のことを韓国の固有語で「コジ」と言っている、つまり「串」だ! 海に面した地形の実際は車窓からは分かりにくいが、たぶん尖った岬なのだろう。韓国では今でもこの語が「串」(音読みはチョンなど)の「訓読み」となって、珍しいことに各地の地名に漢字表記としては保持されている。
バス車内のビデオは、中国人向けに作られていた。
柱状節離
病名かと思うと、洞窟の説明で、やはり中国語なのだろう。観光地では、係員に客の国籍の比率を尋ねられた。中国人が多いと伝えると、施設内を走る列車内の放送は、中国語のテープとなっていた。
海外で受ける歓待には、いつも忝いものがある。こちらの食事は物価の点でやや安めだが、やはり昼から随分とご馳走が出てきた。逆に日本にいらしてくださった時には、とても同じようなお持てなしができない、とこぼす声をよく聞く。中国人の先生方に、盛りそばの上だか大だかを奮発して出したところ、こんなの食えるか、というふうになったとの笑い話もあるそうだ。日本人式の気持ちで、お返しするしかない。
出された食べ物は残したらもったいないと躾けられたが、残させるのが大陸やここでのもてなし方だそうだ。本場の参鶏湯をいただく。骨付きの鶏肉が大きく、これは日本では3人前だ、と笑いが出る。太い高麗人参も贅沢にもまるまる1本浸かっている。
店名が珍しく漢字であるのは、伝統料理を感じさせるためだろう。その「秘」は、示偏の旧字体ではなく、この俗字体のままであり、「苑」の草冠は「十十」となった筆字であった。ロゴになっており、1968年からとある。箸袋や、韓国らしい鉄の匙(毒で変色するため、昔、王様が使ったとされる)の袋、おしぼりの袋に、そのように印刷されていた。サムゲタンは「參鷄湯」と旧字体となっていたが、草冠は付いていない。この「湯」は、中国語と同じくスープの意である。この店では、珍しく店名にハングル表記がなかった。